あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人)

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藤田 祐幸 (著), 槌田 敦 (著), 村上 寛人 (イラスト)
現代書館 (1985/2/1)

こちらも少し前にテンダーさんにお借りしたもの。

若い頃に読んだ同シリーズの本がうまく読めなかったことと、なんとなくエントロピーという概念の射程距離を掴みそこねていたこと(エクセルギーの本を読んで分かっていたはずなのに!)もあって、しばらく手をつけていなかったのだけど、読んでみたらまぎれもない名著だった。

昨日、大きめの本屋に行って、エントロピー関連の本を一通り開いてみたけれども、これを超える本は見当たらなかった(それでも2冊ほど購入)。
ある部分において理解の深まる本だったり、全体を俯瞰できるものはそこら中に溢れているけれども、それらの多くはボンヤリした印象を受けるにとどまり、何かしらの像を結んで心に響くところまではなかなかいかない。
これほど、思想とユーモア、過去と未来が高密度でバランスよく構成されている本には稀にしかお目にかかれないように思う。
前回まとめたようなここ数年かけてようやく見えてきた景色のほとんどが、この一冊の中に凝縮されていること、それもこの本が40年ほど前に書かれたことに驚くが、もしこの本に5年前に出会っていたとしても、ボンヤリした印象で終わっていた可能性が高いので、これも今、出会うべくして出会う本だったのかもしれない。(テンダーさんありがとうございます!)

デカルトからの卒業する時

本書の第3章で、科学の歴史的背景に少し触れられるが、これは人類のターニングポイントであり重要な部分だろう。

あまり詳しくは書けないが、デカルトは、世界を機械として捉え、物事を要素に分解して考えることでそこにある法則を見出し、還元的に世界を捉えようとしたが、この還元主義が近代科学と現代へと続く人類の発展の礎となった。

また、デカルトの二元論は資本主義の発展の基盤でもある。

デカルトが、精神と物質とを二つに分けたことは単なる概念の遊びではなく歴史上大きな転換を生み出した。 デカルトの哲学は精神を持つ人間と自然とを、あるいは精神と身体による労働力とを二分することで、自然や労働力を外部化し単なるモノ・資源として扱うことをあたりまえにしたが、これにより、それまで人類の歴史の大部分を占めていたアニミズム的思考は過去の遺物となり、存在論そのものが大きく変化した。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

デカルトの還元主義と二元論、これが、近代科学と資本主義の発展を支え、今の私たちが豊かさと自由を享受することを可能とした、ということは間違いない。
しかし、そのことが人類を盲目的にし、現代の様々な問題を引き起こしていることもまた、事実である。

科学をある種盲目的なものに押し込めたことは、デカルトの真意ではなかったかもしれない(そうしなければ宗教的弾圧によって処刑されていたかもしれない)し、私がその恩恵に預かってきたことには違いないので、デカルトを悪者扱いしても仕方がない。
しかし、さまざまな問題が明らかになった今、人類はデカルトを卒業する時に来ている。
それは、機械論と生気論、還元論と全体論といった二項対立的な思考を統合するような視線であり、一度切り捨てた生命とその循環へと敬意を払うことであろう。

これは、怪しげな神秘主義に立ち返り、現代とは異なる盲目性に退避せよ、ということではない。そうではなく、神秘主義的あるいはアニミズム的な、理解できないもの、分解できないものにも敬意を払いつつ、全体をみつめる大きな視線を獲得し、それを人類の叡智をもって乗り越えるという明るい態度が必要だということであって、おそらくそれなくしては、地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界という今の難局を人類は乗り越えられない。

エントロピー あらゆる循環を司るもの

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。 例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。 これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

エクセルギーとエントロピーはいわば表裏一体の概念であるが、エクセルギーはどの程度拡散できるか、という資源性のことで、エントロピーはその資源性を利用した際に出されるゴミである。

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。

しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。エントロピーは熱力学という限定的な学問分野の一つの法則である、というイメージを持っていたが、そのイメージにとどまらせていては、全体を見る視点は得られない。エントロピーは地球の活動と生命を含む、あらゆる循環を司る番人なのである。

先程の地球環境の時間的限界と資本主義的成長と格差の限界といった限界性の問題はエントロピーと循環の問題であり、この全体・循環への視線を欠いているところがデカルト的近代社会の限界なのである。

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。(オノケン│太田則宏建築事務所 » はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則))

以前、テンダーさんがエントロピー学会の会員だということを聞いたときには正直ピンと来なかったのだけど、本書を読んでエクセルギーとエントロピーはアフォーダンスとオートポイエーシスに続く、個人的重要概念になると思えた。
(アフォーダンスとオートポイエーシスも生命と循環に深く関わる概念であり、エクセルギー・エントロピーは同じ系譜として自分の中でリンクする確信がある。)

まだぜんぜん到達できてはいないけれども、これらの概念が建築に明るさをもたせるはずだという確信は少しづつ深まりつつある。





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