本来性から運命性への転回 B313『暇と退屈の倫理学』(國分 功一郎)

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國分 功一郎 (著)
新潮社 (2021/12/23)

國分氏の『暇と退屈の倫理学』、遅ればせながら読んでみた。

退屈とリズム なぜリズムを欲するのか?

人間もしくは生物が、世界を反復と差異のリズムとして捉え、つきあっていくことは、私が想像するよりはるかに重要なことであり、生きることと直結するような問題なのだろう。そして、それゆえに、そこに何かしら価値を感じてしまうのではないか。私はそんな風に理解した。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生きることとリズム B311『センスの哲学』(千葉 雅也))

前々回読んだ『センスの哲学』で、リズムは人間にとって、生きることとそのまま重なるような重要なものである、と考えた。
それは、人類もしくは生命の歴史の中で、長い時間をかけて生きていくために身に着けてきたものなのだろう、ということは、なんとなく了解できたのだが、その理由はまだぼんやりとしたイメージでしかなかった。

その後、本書(『暇と退屈の倫理学』)を読みはじめたのだが、すぐに、この2つの著作、センスと退屈に関する哲学は、かなり似たところ、根本的な部分ではほとんど同じことを扱っているのでは、と感じた。

千葉氏は、人間を「認知が余っている」動物とした上で、人間のどうしようもなさを、センスという言葉で扱うが、國分氏もほとんど同じことを、退屈という言葉で扱っている。「何となく退屈だ」から逃れようとする人間の性と、リズムに価値を感じてしまう性とは同根であると言えないだろうか。だとすれば、この2つの著作を重ね合わせることでより豊かな読み方ができはしないだろうか。

例えば、國分氏が本書で提唱している”なぜ人は退屈するのか?”ということに対する仮説は、”人はなぜなぜリズムを欲するのか?”という問いに重ね合わせて考えることができるのではないか、というのが今回の私の見立てである。

そうすることで、前々回はまだ曖昧だった、人はなぜリズムを欲するのか?ということに対するイメージをより明確にできるように思うのだ。

定住革命とサリエンシー

本書では、序盤と増補版付録にその問いに対する國分氏の仮説が書かれている。

一つは西田正規の「定住革命」をベースとした仮説である。
人間は食料生産技術のお陰で定住生活が可能になった、というのが定説であるが、そうではなく、やむを得ず食料生産と貯蔵による定住生活をしなくてはならなくなった、というのが本書での仮説である。
人類は祖先の時代から400万年のほとんどの期間、遊動生活を行っており、それに適した能力や行動様式を身につけてきたが、氷河期が終わりを告げた1万年ほど前から、環境変化によって遊動生活が困難になったため、その行動様式を捨てて、定住生活を行うことを余儀なくされた。そして、生まれてからその都度、その新しい様式を身につける必要が生じてしまった。

その結果、遊動生活では思う存分発揮されていた人間の認知や行動の能力は、定住するにいたって発揮する場を失い、人間は”「認知が余っている」動物”となったのだ。
それによって、人類は退屈という立ち向かわねがならない課題を抱えることになるとともに、それが文明を発展させる原動力ともなった。

もう一つの仮説は、精神医学などで用いられる「サリエンシー」という概念をベースとしたものである。
サリエンシーは「興奮状態をもたらす、未だ慣れていない刺激」のことで、世界に満ちているサリエンシーに慣れていき、予測モデルを形成することが自己の形成でもある。
人はサリエンシーのない安定した状態を求めるが、ここで個々人の歴史性が関連してくる。
個々人が生きていく中で、様々なサリエンシーに慣れていくわけだが、その中には一種のトラウマ・痛みとして潜在意識にとどまるものがでてくる。人は安定を求めるが、安定し刺激がなくなる、すなわち退屈になると、心のなかに沈殿していた痛みの記憶が人を苦しめだすのだ。
國分氏は、これが、人が「なんとなく退屈だ」から逃れようとすることの正体ではないかという。

2冊を読み比べてもらえば分かると思うけれども、このあたりの議論は千葉氏の議論ともかなり親和性が高く、”人はなぜリズムを欲するのか?”に対する仮設としても読めるように思う。

つまり、人は、定住革命によって持て余すことになった能力の行き場を求めて、また、安定と潜在的な痛みの板挟みの中で生きていくために、リズムを欲するのだ

”人間であること”と”動物になること”

本書では、ハイデガーの退屈論を分析しながら、”人間であること””動物になること”を退屈に対する結論としてあげる。

詳細は本書を読んでいただくとして、簡単に概要を書いてみる。

人間は定住生活と潜在的な痛みによって、「なんとなく退屈だ」から逃れようとする性を抱えることになった。
これに対し、”人間である”とは、ハイデガーの退屈の第二形式、退屈をなんとなく回避するという仕方で気晴らしをしながら生きることをベースにした生き方だ
その時に重要なのが、消費ではなく浪費、贅沢を取り戻すことだという。これを哲学的な言葉でいうと「物を受け取れるようになる」ということになるが、つまりは、訓練によって物を味わい楽しめるようになるということである。(受け取るべき「物」とは何か、はハイデガーの考察が参考になりそうだけれども、今回は保留にしておく)

しかし、上記のような方法だけでは、人はやがて安定化し「なんとなく退屈だ」という声に呑み込まれていくため、時にはその人間らしい生からはずれ、何かに逃げ込むことも必要になる
何かに没頭するような状態になることが必要なのだが、著者はそれを”動物になること”と称する。

ここで、ハイデガーの示した第三形式=第一形式は、決断をすることによって、何か(例えば仕事や使命)の奴隷になることであったが、奴隷になることは思考することを人から奪う
それに対し著者の言う”動物になること”とは、”人間であること”に内在する物を楽しむための思考、”考えること”の延長として没頭することである。奴隷になることを避けつつ、そのような状態になることを待ち構えることができるようになること。それが、本書の結論である。

これを『センスの哲学』の言葉を交えて言い換えると、”人間であること”の反復、すなわちセンスと、”動物になること”、すなわち人の”どうしよもなさ”のアンチセンスとの間を揺れ動くリズムにこそ、「なんとなく退屈だ」を余儀なくされた人間の生き方があるといえるだろう。

本来性を誘惑から逃れる

さて、実は本題はここからである。

その本題とは、「本来性を誘惑から逃れるにはどうすべきか」「リズムを生きることのイメージをクリアにする言葉を見つける」の2つである。

本書でも本来性という概念は一つのキーワードになっている。
「人間とは本来〇〇である」や「建築とは本来〇〇である」という本来性を軸とした「本来の姿に戻らねばならない」という議論は、「強力に保守的なものとなり、時に凶暴な、暴力的なものにすらなる(p.225)」

最近、インセクトという環境をテーマとした住宅ブランドを立ち上げたが、このテーマは容易に「人間/建築/生活とは本来〇〇な存在だから、そこに戻らねばならない」という本来性の誘惑に引き寄せられる。
しかし、そうなれば多くの人はおそらくそこに保守性や暴力性を感じ取り、距離をとることにつながるだろう。
そうならないような、開かれたあり方を維持するためにはどうすればいいのか。これは、このサイトでも度々書いてきた大きな課題である。

それに対して、本書の文庫版で追加された『傷と運命』という論がとても参考になった。

ここでは、熊谷晋一郎氏の議論を引きながら、「人間本性」にもとづく哲学ではなく、「人間運命」にもとづく哲学の可能性が示唆される。

人間は刺激を避けたいにもかかわらず、刺激がなければ不快な状態に陥る。この退屈を巡る矛盾は、人間とは本来こういうものであるべきだ、という人間本性を論じている限り解き明かすことはできない。それは、それまで生き延びてきた、一つの固有の歴史を持つ人間について考える、すなわち個々の記憶やつながりを持った具体的な「人間運命」から考えることでようやく答えることのできるものではないか。

哲学は長らく「人間本性」について考えてきて様々な対立が起こったが、それらの中に運命と本性を区別することによって解決できるものがあるのではないだろうか。というのが著者の見解である。

人間/建築/生活とは本来どのようなものであるべきか?
自分も長くこのことをテーマの中心に据えてきたけれども、環境について考えていくうちに突き当たった矛盾に答えるには、問いのベクトルを変えることが必要なのかもしれない。

人間/建築/生活も、新しい出会いや記憶などによって、一人ひとりの固有の歴史の中から立ち上がるものだと考えたとき、人間/建築/生活の本来の姿を想定し、そこへと導こうとするのではなく、固有の歴史性・運命性の中から立ち上がるものこそを、捉えようとするべきなのではないか。

本来の人間/建築/生活を探し求めるのではなく、人間/建築/生活が立ち上がっていくプロセスと、それを可能とする出会いの機会を生み出すことが重要なのではないか。

本来の姿を提示したいという誘惑に抗いつつ、未来を実現していくためには、生成変化の機会そのものを組み立てるべきではないか。

このことは、私が2年近く前に、生活を変えなければ何も分からないのでは、と思い立ち、二拠点生活を始めたことの意味を説明するものでもある。
そうか、私は、本来の答えを知るためではなく、自ら生成変化するために新しい生活へと飛び込んだのだ。そして、他者に対して未来を提示するこということは、こういう機会そのものを提示することなのではないか。

これは、以前考えた「おいしい知覚/出会う建築」に接続できるかもしれない。

リズムを生きることのイメージをクリアにする

最後に、「リズムを生きることのイメージをクリアにするような言葉を見つける」について。

この時見たように、自己と環境との関わり合いをリズムとして捉えようとする見方は、インゴルドのメッシュワークの中の一本の線としての自己のあり方としてもイメージできる。
さて、私は何が言いたいか。
実は私自身が、それを知りたいと思っているのだけれども、二拠点生活の中での思考や実践を通じて、環境との関わりのイメージをクリアにしていこうとする中で、リズムに対する実感を掴むことが必要なのでは、という予感がある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生きることとリズム B311『センスの哲学』(千葉 雅也))

ここでは、リズムに対するイメージはまだ曖昧なままだった。
本書を読んだ今、このイメージを自分の言葉に置き換え、よりクリアにすることはできるだろうか。
言い換えると、リズムによって何を捉えようとしているのか、を言葉にできるだろうか。

リズムには自己のリズムと、環境の中の多様なリズムの2種類あり、それらのリズムの重なり合いが世界だと考えてみる。
この世界の中で、何かしら答えのようなものを探そうとしてきたし、提案したいとも思ってきた。
しかし、本来こうあるべきといった姿を探してもその答えにはたどり着けず、矛盾と暴力性がどうしても生まれてしまうし、本来性を探し求める目線は環境の中に存在する多様なリズムを見えなくする

ではどうすればよいか。

探し求めている答えのようなものが、一人一人の歴史と出会いの中で立ち上がってくるものだとすると、考えるべきは、出会いの機会の方であり、それは環境の中の多様なリズムの中にある
つまり、リズムとは生成変化のきっかけとなる出会いのことなのではないだろうか。

その、リズムを捉えるためには、考えること、知ろうとすること、感じ取ること、そしてそのための知識や技術が必要であるが、消費社会・(インセクトの方での言葉でいうと)分断と転嫁の思想に浸りきった多くの人は、そもそもそういうリズムを捉えようとするモードにない。

だとすると、建築あるいは建築というプロセスの持つ使命の一つは、まずは人々のモードを切り替え、多様なリズムへと開かれたセンスを取り戻すきっかけとなることにあるのかもしれない。

そして、建築はその可能性を持っていやしないだろうか。





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