人間と動物の差異とは何か B312『生物から見た世界』(ユクスキュル)

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ユクスキュル, クリサート(著), 日高 敏隆,羽田 節子(翻訳)
岩波書店 (2005/6/16)

ユクスキュルの環世界、特にダニの例は、頻繁に引用されているのを目にするので、引用元をちゃんと読んでおこうと、だいぶ前に買ってあったもの。

しばらく積読状態にあったけれども、次に読書記録を書こうと思っている『暇と退屈の倫理学』で少し気になったところがあったので、いい機会と思い読んでみた。

ユクスキュルとギブソン

想像はしていたけれども、ユクスキュルの環世界と、ギブソンの生態学(アフォーダンス理論)はかなり共通点がある

ユクスキュルが『生きた主体なしには空間も時間もありえない(p.24)』と言うように、両者とも主体の側から世界を描き出すことを徹底しているし、その視点によって主体と環境のダイナミックな関係性を描き出すことに成功している。ユクスキュルの行為トーンと探索トーンは、生態学の「遂行的活動(performatory action)」と「探索的活動(exploratpry action)」に視点が近いし、世界から意味を見出す視点も共通している

ユクスキュルはギブソンより40年早く生まれており、その先見性には驚く。(その先見性ゆえに、ユクスキュルは非科学的だとして長い間干されたようだ。)

また、ユクスキュルはギブソンよりも一般向けの引用では人気があるのではないだろうか。
それは環世界という言葉が、人の好奇心をくすぐり、毎度使われるダニという扱いやすい例を持っているからかもしれないが、本書を読んでみた感じでは、ダニの他にも面白い視点はたくさんあった。発刊当時、多くの人に影響を与えたのは想像に難くない。
一方、ギブソンは主にデザインの文脈で環境が”一方的に”意味としてのアフォーダンスを与える、といったような偏ったイメージが流通しがちで、その言わんとしていることの本筋は、現代ではメインストリートではなくバックグラウンドで静かに今も流れている印象だ。

人間と環世界

さて、『暇と退屈の倫理学』で少し気になったことを書いておきたい。(次回書こうと思っていたけど、本筋の話とは逸れそうなので、今回書くことにした。)

気になったのは以下の部分。

環世界論から見出される人間と動物の差異とは何か?それは人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力を持っているということである。人間は動物に比べて、比較的容易に環世界を移動する。(『暇と退屈の倫理学』p.330)

果たして、環世界というものは容易にスイッチングもしくは移動可能なものなのだろうか。

私のイメージでは、環世界はその時点での総合的な可能性の束のようなもので、環世界そのものを容易にスイッチングできるようなものではないと思う。

國分氏のいう例が環世界”間”の移動であるとするなら、ダニも、嗅覚をもとに動物を待ち構えているときと、温度感覚によって動物に落ちたことを感知するとき、そして、触覚によって移動するときでは、異なる環世界”間”を移動していると言えてしまう。
しかし、ユクスキュルによるとそれらは、環世界を形作る機能環の一つに過ぎないし、知覚と作用の多様さによって環世界の複雑さを増している一例ともいえる(ダニの例は単純さ故の確実性を取得している例でもあるが)。なので、環世界”間”を移動しているのではなく、移動しているとすればせいぜい環世界”内”移動ではないだろうか。

では、國分氏の言わんとする人間と動物の差異とは何か?

それは、人間が知識や道具、スキルなどによって、自らの環世界を”後天的に”拡張もしくは変化させられることにあるのではないだろうか。言い換えると、人間と動物の差異は、人間がその他の動物に比べて高い環世界拡張能力もしくは環世界変形能力を持っている点にある、と言えないだろうか。(後天的に、という条件を外せば、完全変態昆虫の環世界変形能力には遠く及ばないだろう。)

さらに、社会性を持つ人間は環世界を拡張/変化させるための術を、文化や技術といった形で社会に埋め込み、世代を超え、社会的に享受できる環境を作り上げられる、という点がより大きな差異である。(世界に存在する数え切れないほどの書籍を、環世界拡張ツールだと捉えるとその差異の大きさがイメージできないだろうか。)

このことを、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張する形で示したのがリードであるが、リードの理論を環世界と重ねることは難しくない。(『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』エドワード・S. リード 参照

そして、このことは、國分氏のその後の話の流れともそれなりに整合するように思う。

とはいえ、この解釈があっているかの確信があるわけではない。
『暇と退屈の倫理学』は個人的に得るものが多かったため、次回でまとめる前に気になった点を、自分の中で事前に整理しておこうと思った次第。





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