近代と遊びとエコロジー ~解像度についてのメモ
・近代は分断によってブラックボックス化とアウトソーシング化を進めることで、さまざまなものごとに対する解像度が低いままでも生きていける状態を必死で作り上げてきたと言える。あらゆるものごとが便利になった。
・遊びとは、ある特定のものごとに対する解像度を高めていくことだと定義してみる。そうすると、近代はあらゆる場所から遊ぶ機会を排除してきたと言えそうだ。
・エコロジーは近代によって不要とされてきた解像度を再び高めていくことからスタートする。まずは目・感度を養うことが重要。
・そうすると、エコロジーと遊ぶことはかなり近いところにありそう。
・昔から便利さにある種の危うさを感じていたこととも関係があるだろう。
・住まうこと(使うこと)の半分は建てること(つくること)の中にあり、そこに人間であることの本質がある、というようなことも、解像度を高めることと関連して考えられそうだ。
・エコロジカルに遊ぶことが人間にとって本質的なものだとすると、このままそれらが置き去りにされたままで果たしてよいのだろうか。
・自分たちは別に良いとしても、子供たちに渡すべきものを半分置き去りにしてしまっているとしたらどうだろうか。
・今年掲げた「遊ぶように生き、遊ぶようにつくる」ということが少しだけ見えてきた気がする。