流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一)
福岡 伸一 (著)
講談社 (2007/5/18)
てっきり読んだものと思い込んでいたけれども、未読だった。(読んだ内容を忘れてるのかとも考えたけれど、前回のシュレーディンガーについても本書に詳しく書かれていたのでやはり読んでいなかったようだ。)
そして、さすがに面白かった。
生命とは何か?
本書は、著者が大学の時に出会った問いに対する著者なりの返答なのだろう。
そんなとき、私はふと大学に入りたての頃、生物学の時間に教師が問うた言葉を思い出す。人は瞬時に、生物と無生物を見分けるけれど、それは生物の何を見ているのでしょうか。そもそも、生命とは何か、皆さんは定義できますか?(p.3)
著者は、いくつもエピソードを交えながら、生命とは何かを描いていく。
「生命とは自己複製するもの」とよく言われる。
遺伝子の複製によって、ミクロにもマクロにも、生物は自己複製を繰り返していく。そのことが生命を生命たらしめている。
それはそうに違いない。しかし、例えばウイルスは細胞に寄生することで自己複製を繰り返すが、その形態は無機質で、栄養を摂取することもなければ呼吸をすることもない。生命と呼ぶには何かが足りていない。
自己複製が生命を定義づける鍵概念であることは確かであるが、私たちの生命感には別の支えがある。鮮やかな貝殻の意匠には秩序の美があり、その秩序は、絶え間のない流れによってもたらされた動的なものであることに、私たちは、たとえそれを言葉にできなかったとしても気づいていたのである。(p.165)
シェーンハイマーは私たちの身体の構成要素が絶えず入れ替わっていることを見つけ出した。
それぞれの構成要素がエントロピー増大の法則によって特質の維持が困難になる前に、先回りして分解し再構築を行う。
さらに、身体要素は「柔らかな相補性」と呼ぶような動きを伴った柔軟な結合によって構成されている。
この耐えざる分解と再構築という流れを伴いながら生命を維持している柔らかな状態を著者は動的平衡と呼ぶ。
エントロピー増大の法則に抗う方法には、システムの耐久性と強度を強化する方法と、システムそのものを流れの中に置き絶えず更新し続けることの2つがある。
私たちの感覚で工学的に考えた場合、前者の方が耐久性が高く、維持コストも低いように思われる。
だが、生命は後者の道をえらんだ。
つまり、生命は流れとして動き続けなければならないという宿命を引き受けたのだ。しかし、それと引き換えに、生命は環境に適応する柔軟性と、結果的により高い持続可能性を獲得することに成功する。
この宿命を引き受けた、という事実こそが、私たちの生命感を支えているのかもしれない。
建築について
しつこいようだが、ここで建築についてである。
設計の場面ではよく、メンテナンスフリーが求められる。
しかし、エントロピー増大の法則に反して、真にメンテナンスフリーなどというものがあるはずもない。
一定の耐久性を期待して選択したピカピカの材料が、時を減るに連れてこの法則に破れていく様を顕にする。それが関の山だ。
ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
それはそれで仕方のないことなのだろう。エントロピーの法則に破れていく様も見方によっては、時間の流れを感じさせる味である。
ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。
エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない。
(このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)
しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる。
それが可能な条件が出揃えば、「建築に生命の躍動感を与える」ことはうまくいくだろうし、願ったり叶ったりである。
そうでなければ、それぞれの条件で可能な範囲、かつ楽しめる範囲で引き受けることができるのはどこまでか、その効果を高めるにはどのような方法があるか、を見極める必要があるのだろう。
希望があるとすれば、そのような宿命を楽しめる人、というよりむしろ餓えている人が増えているように思えることかもしれない。