探索者であること B300『トイレの話をしよう 〜世界65億人が抱える大問題』(ローズ ジョージ)

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ローズ ジョージ (著), 大沢 章子 (翻訳)
NHK出版 (2009/9/26)

環境を意識しだしてから、なかなか読む勇気が持てなかった最後の砦、トイレ問題。
いつかは目を向けなければいけないと、重い腰を上げて読んでみた。

本書は装丁からは想像もしなかったほどのボリュームでヘビーな問題がぎっしりと、そして軽快な文章で詰め込まれている。

世界65億人が抱える大問題

まず、トイレ、つまり排泄物の問題について自分は何も知らなかったことが分かる。

そこから病気にかかる率はおそろしく高い。1グラムの便は、1千万個のウイルス、百万個のバクテリア、千の寄生虫、そして百の寄生虫の卵を含有している。(中略)ある衛生の専門化が試算したところ、不適切な衛生環境に住む人は、毎日10グラムの便を摂取していることになるという。不十分な下水設備、衛生状態の悪さ、そして糞便の粒子が混入した危険な水が、世界の疾病原因の10分の1を占めている。(p.15)

世界の人々の4人に1人はトイレを持たず、野原や道端で排泄し、それが様々な感染症などの原因になっている
途上国では下痢が原因で15秒に一人の子どもが死亡していて、その9割は糞便によって汚染された飲食物によって引き起こされている

また、人間は平均で1年に35kgの便と500Lの尿を排出し、それに水洗トイレの水が加わると総量は1万5140Lにもなると言われているが、都市でひしめき合って住んでいる人たちの排泄物の処理は様々な問題を残したままだ。

トイレがこれほど奥が深いとは思いもしなかった。
「社会が人の排泄物をどう処理するかは、その社会が人をどう扱っているかを示すバロメーター(p.22)」「トイレを見れば、あなたがどんな人間かわかります(p.128)」
トイレは、衛生、経済、人口、政治、文化・慣習、さまざまな問題と根深くつながっているけれども、それらの問題はタブー視されて表に出てくることはほとんどない

下水設備が整った日本において、建築を考える際にトイレについて考えることと言えば、そこでの振る舞いや、音や匂い、設備や快適性など、その閉じられた狭い空間についてがせいぜいで、その先のことは「なかったこと」になっている。下水が最終的にどう処理されているのか、そこではどんな人がどんな仕事をしていて、どれくらいの費用がかかり、果たしてそれが一番の解決策といえるのか、について想像を巡らすことはまずない。

本書でも、さまざまな問題に対するさまざまなアプローチが紹介されているけれども、トイレ問題があまりにさまざまな要因とつながっているため、そのアプローチも多様で、完全な正解というものはなさそうだ。
それぞれの地域、それぞれの環境、それぞれの生活、の中で、あるべきトイレについてまずは目をそらさずに考えてみる。本書はこの最初の第一歩の重要性を鋭く突きつけてくる。

今の日本で、自分が何を考えるべきなのか。それすらもぼんやりとしか見えていないけれども、まずはこれに関わる技術のこと(例えば下水処理や浄化槽、または排泄物の分解や活用に関する科学的な根拠など)をゆっくりとでも学んでみたいと思う。

トイレ問題と闘う人たち

トイレは人間の寿命を伸ばす唯一最大の可能性である(p.16)

本書は、とても重要であるが、人々が目をそらしている(そして、とても刃が立たなさそうな)巨大な問題に立ち向かう人々のドラマでもある。

例えば、インドの人口4000万人を超えるある州では、彫り込み式のトイレを持っているのは4%に過ぎない。
ほとんどの人が屋外のそこら辺で排便し、さまざまな感染症が蔓延し多くの人が死んでいる。
あなたは、そのことに心を痛め、彫り込み式のトイレを普及させることで少しでも改善しようと行動を起こしたとしよう。
しかし、彫り込み式の便所を設置したことろで、適切な維持はされずすぐに廃れ、人々はこれまで通り屋外で排泄したほうがマシだと行動を変えず病気は蔓延したままだ。
たとえうまくいったとしても、ほんの僅かな人数がやっとで、全体が改善される日など想像もできない。

こんな状況で奮闘し続けることはできるだろうか。

そんな中、住民に自ら考える機会を与えることで、外部からの押しつけでない「地域主導型プロジェクト」というものを進めている人たちがいる。

彼らが変わる唯一の道は、彼ら自身が自分を変えることだ、とカーは考えた。とはいえ、とカーはガイドラインに書いている。「開発援助のプロたちの、凝り固まった習慣を打ち破るのは難しく、全知の外部者として村に入り、教えと無料の彫り込み便所を広めたいという思いに打ち勝つのは困難だ。しかしここが重要なのだ。住民たちのどのような気づきも、教えられた結果ではなく、天啓でなくてはならない。内から出たものであるべきで、上から押し付けられたものであってはならない」(p.286)

カーは、このトイレを住民たちが維持し、改善していくことを信じている。なぜなら、自立的な動機づけこそが、なににもまして持続可能性を秘めているからだ。(p.291)

地域主導型プロジェクトは、人の感情を操作することによって成り立っている。まず嫌悪感。つぎに恥の意識と誇りである。(p.293)

最初から答えを与えるのではなく、動機そのものにアプローチする。

本書に挙げられている例は、成功ばかりではなく、どちらかというと困難や挫折に直面しているものが多い。しかし、だからこそ困難に立ち向かおうとする人にとっても有意義な本になっている。

経済学者のウィリアム・イースタリーは、『白人の責任』(邦題『傲慢な援助』)という本の中で、援助の世界を計画者調査者の二つに分けたそうだ。
計画者はトップダウン式にものごとを与えようとする人たちで、調査者は本書で取り上げられている人たちのように、実態に光を当て、人々の声を聞き、需要を探し出して、うまくいくやり方を見つけ出す。そんな人たちのことだ。

計画者と調査者、私なら、計画者探索者と言い換えるが、現代においてこの二つの姿勢の違いは決定的に重要だと思われる。

これまでたくさん書いてきたので深くは立ち入らないけれども、計画という姿勢、つまり、ある前提条件及びそれに付随する答えをあらかじめ持った上での判断、だけでは見落としてしまうことがある。この見落としによるマイナス面があまりに大きくなっていないだろうか。

事務所を移転し生活を営む中で、探索者であること、もしくは遊ぶ人であることの重要性は日に日に大きくなっているように感じる。





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