「建築の社会性」ってなんだろう

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しかし建築が社会と全く関わり合いを持たずに自立した存在として成立することは難しい。そこで僕は「シャカイ」から離れて建築をどのようにつくっていくのかをテーマとしてじっくり考えたい。もちろん、うっすらとではあるけど、自分なりに方向性のようなものはあるのだけれど、まだことばにしてまとめることはできそうにない。でも次の方向性としてははっきりしている。建築は一度「シャカイ」から離れなければ、きっと本当に信頼され、祝福される社会には戻って来られないだろう。(建築について:社会的な建築を再考する)

を読んでちょっと考えだしたのですが、大きなテーマなので反射的なメモにとどめます。(反射的な文章がFacebookとかに移ってしまってブログが流れなくなったので試験的なものも兼ねて)

僕はよく、建築に人格のようなものを当てはめて自立した存在であって欲しい、というようなことを書いているのですが、建築と社会の関わりについても人間のそれと重ねあわせて考えられそうだと、思いました。
例えば、人間が自立すると言ったとき、社会との関係を捨て去ることでは当然無く、むしろ社会との関係がより強まりつつ従属や依存とは違ったものへ移行することをイメージしますが、同様に建築が自立するということは、より社会との関係が強まるのではないか、というのが一つの仮説。

で先のブログの最後を読んで頭に浮かんだのが以下の引用群。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B003『子どものための哲学対話』

『根が明るい人っていうのはね、いつも自分のなかでは遊んでいる人ってことだよ。・・・なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ』

『きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことが出来る可能性がある。』

『自分が深くて重くなったような気分を味わうために、苦しんでいる人を利用してはいけない・・・』

『いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほどそれにひたりたくなるんだよ。忘れてしまうと、自分にとって何か重大なものが失われてしまうような気がするのさ。』

『人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なにより大切なことなんだ。そして、友情って、本来、友達なんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、なりたたないものなんじゃないかな?』

上手く言えないけれども、「建築の社会性」と言った時に感じるちょっとした違和感と重なる部分がありそうな気がしました。「自分探し」とかに感じるものともちょっと似てる。

とりあえず、「建築、お前自立しろ。社会性なんてそこからしか生まれないぜ」と言ってみる。とりあえず。

ところで、自立ってどういうことなんだろう。





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