B071 『私たちが住みたい都市』
工学院大学で開催された建築家と社会学者による連続シンポジウムの記録。
全4回のパネリストとテーマは
伊東豊雄×鷲田清一「身体」
松山巌×上野千鶴子「プライバシー」
八束はじめ×西川裕子「住宅」
磯崎新×宮台真司「国家」
と大変興味深いメンバー。
しかし、このタイトルのストレートさに期待するようなスカッとするような読後感はない。
建築という立場の無力感・困難さのなかでどう振舞えるかということが中心となる。
宮台真司の”○○を受け入れた上で、永久に信じずに実践するしかない”いう言葉と、その中で実践を通じて何とか活路を見出そうと踏ん張る山本理顕が印象的。
建築家は、広い意味でのアーキテクチャー・デザイナーになろうとも、それだけでは完全に周辺的な存在になるということです。各トライブのアイコンの設計如何は、人々の幸せを増進させる試みかもしれませんが、それは、各種の料理が人々の幸せを増進させるということ以上のものではありません。(宮台)
宮台の言うように建築家には『個々の料理』を提供する以上のことは出来ないのだろうか。
というより、『個々の料理』こそが世界に接続できる唯一のツールなのかもしれない。
それこそがシステムの思うつぼで、管理された自由でしかありえないのかも知れないという恐れはある。
しかし「『個々の料理』によって世界の見え方がほんの少し違って見えた」という経験を信じる以外にはないのではないだろうか。
そのどうしようもない建築や都市の風景によって私達の生活は今や壊滅的になってしまっているのではないか。建築の専門家として言わせてもらいたい。今の日本の都市は危機的である。私たちの住みたい都市はこんなひどい都市では決してない。こんな都市の住民にはなりたくない。
だから話をしたいと思った。(あとがき)山本理顕
それにしても、そんな思いで議論された『私たちが住みたい都市』でさえ、わくわくするような躍動感のあるイメージを提示できないのはどういうことだろうか。
システムへの介入よりも、イメージの提示こそが必要ではないだろうか。
システムや意味やその他もろもろのものに依存せず、ただデザインし続けることにこそ可能性が残されているはずだ。
もっとシンプルに『私たちが住みたい都市』を思い描いたっていいんじゃないだろうか。