B065 『ポストモダンの思想的根拠 -9・11と管理社会』
『差異のポストモダンから管理のポストモダンへ』
このアイデアはヒントになる。
しかし、本著の全体的な構成は、周辺の思想をたどるガイドブックのようなもので、専門でもない人にとっては少しまわりくどい気がした。
自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。
管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。
一般には、自由と管理は対立し、互いに排除しあう、と考えられるだろう。ところが、ポストモダンな管理社会では、管理は自由を容認し、みずからに組み込んでいる。自由な「差異の戯れ」が肯定され、その上で差異が巧妙に管理されるのだ。そこで、こうした管理社会を、本著では「自由管理社会」と名づけることにしたい。ポストモダンな管理社会は、差異を組み込んだ「自由管理社会」なのである。
・・・(中略)・・・「自由管理社会」では、自由のみが強調されて、管理は不可視になっている。しかし、管理の実態を理解することなしには、自由も危ういと考えなければならない。
自由を謳歌しているつもりが、実は巧妙に管理されたものである。
なんか孫悟空がお釈迦様の掌の上を飛びまわっているようだ。
それに対して、どのようにふるまうか?
・掌の上でもいいから、飛び回ることを謳歌する。
・なんとなく釈然としないので飛び回ることをやめる。
・釈然としないがとりあえず飛び回って謳歌しているつもりになる。
・掌からなんとか降りようとする。
・その他(何があるだろう。飛び回らなくとも楽しむ?)
どのようにふるまうか決めかねてるのが一つ前で書いた「一歩抜け出せなさ」なのかもしれない。
それは、僕の生き方の問題でもあるし、表現の問題でもある。
極端に言えば、去勢された生き方では去勢されたようなものしかつくれないのでは。
(そういえば、この本を読むきっかけになった対談(NA 2006 4-10)で内藤廣がそういう感じのことをいってた)
さて、どうしようか・・・
— メモ—
・掌でもなんでも楽しめばいいじゃん、って言うのが現代の傾向かもしれない。
しかし、皆が自由に振る舞い、利便性を求めると当然リスクが高くなり、セキュリティ対策・情報管理が要請される。
当然それにはいろいろなコストもかかる。
自由なつもりが逆にがんじがらめで、管理社会を維持・強化するために搾取されてるってことはないだろうか。
僕は漠然と感じる生きにくさ、ただ生活するだけでも膨大なコストを要求される社会の原因はこのあたりにあるような気がする。
それを少しだけずらすことはできないだろうか。
・著者は批判的だがジジェクの次の文にも何かしらのヒントが隠れてそうな気がする。
今日のような状況においては、革命的な機会に開かれている唯一の方法は、直接的な行動への安易な呼びかけを断念することだ。そのような呼びかけによって、物事は変わっても全体の情勢は変化させないような行動へと、われわれは必然的に巻き込まれるだけだ。今日の苦境とは、もしわれわれが直接に、「何かをしたい」(反グローバル化運動、貧民救済・・・への参加)という衝動に屈するならば、われわれは確実に現存秩序の再生産に加担することになるのは疑いないということだ。真のラディカルな変革のための基礎を据えるための唯一の道は、行動への衝迫から撤退すること、「何もしないこと」である。こうして、異なった種類の行動のための空間を開くのだ。(ジジェク)
なんとなく東洋的に感じる言葉ではあるが、現代の若者も似たようなことを動物的な嗅覚で感じ取っているのではないだろうか。
(良否は別にして僕は若者のそういう敏感さは信頼してみてもよいと思っている。)