都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)
メノ スヒルトハウゼン (著), 岸 由二 (翻訳), 小宮 繁 (翻訳)
草思社 (2020/8/18)
『建築雑誌 2205 野生の都市 City is Already Wild』で紹介されていて関心をもったので読んでみたけれども、とても興味深く、各トピックがどれも魅力的に描かれていて読み物としても大変面白かった。
生態系工学技術生物
例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。 アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他))
以前、アルコンゴマシジミとのエウメルスヒメバチの生態に関して書いたことがあったけれども、アリの生態を利用する個性豊かな「好蟻性生物」は約1万種存在すると推定されている。
アリのような自分たちの生息域を改変・創造することで生態系を自ら創り出す生き物を「生態系工学技術生物」というそうだが、例えばビーバーもダムを造り水を堰き止めることで環境を大きく変え生態系を改変する。
はるか以前、ビーバーがダムで渓流を堰き止めた事によって生態系が大きく変わった島があったが、それがマンハッタンである。
そのマンハッタンの400年前、ヨーロッパ人が足を踏み入れる前の状態を再現した地図と現在の地図とを比較できるサイトが本書で紹介されていて、その2つを並べたのが下の画像である。
■The Welikia Project » Welikia Mapより
ネタバレになってしまうので未読の方には申し訳ないが、このサイトの紹介に続くのが下記の文章。
この文章が向かう先について、すでに読者はうすうす感づいているかもしれない。マナハッタ・プロジェクトの操作可能なマップのボタンをクリックすることで、私たちは2種類の生態系工学技術生物の間を繰り返し行き来しているのだ。(p.36)
そう、左がビーバーによって改変された生態系であり、右が著者が「自然の究極的生態系工学技術生物」と呼ぶ、ホモ・サピエンスによって改変された生態系なのである。このホモ・サピエンスは「現代のマンハッタンという、彼らが自らのために工学的技術を駆使して創り出した生態系の中を、まるで巣の中のアリのように、走り回っている」。
衛星写真の視点からそう言われると、人間がアリと同じようにただせわしなく働いている生き物の種の一つに過ぎないように見えてくるし、そこを棲家とする別の生き物の姿も頭に浮かんできそうである。
本書で著者が示したいこと多くがこの部分に現れているように思う。
それは、人間をアリやビーバーと同じように生態系を自ら創り出す生き物の一つとして、自然から切り離さずに捉える、という視点と、その人間が改変した環境にたくましく適応しながら「好人性生物」ともいえそうな生き物が暮らしていて、生態系を築いている、という視点である。
そして、その生態系が築かれつつある今も、生き物たちは進化の只中にいる。
都市環境に適応する生物と多様性
進化とは人間の一生を遥かに超える長い年月の果てに達成されるものである。
今までは、進化をそのように考えていたけれども、本書で示されるのは、それよりも遥かに早く環境に適応していく生物の姿である。
その適応の仕方には、遺伝子によらないもの、柔らかい選択(前もって存在する遺伝子の変異体による進化)、硬い選択(突然変異による進化)、エピジェネティクス(塩基配列の変化なしの染色体の変化)など多様であるが、本書で紹介される多くがこれまで進化と呼んできたことと変わらないか、もしくはそのプロセスといえるものである。
中でも、エピジェネティクスという言葉は初めて聞いた。
実は、染色体のDNAは梱包材のようなもので包まれていて、これが剥がされ、DNAが露わになったときにはじめてDNAが機能するという。この梱包材の形状によってDNAの持つ機能が細かくチューニングされ、その形状が子に引き継がれることもあるそうなのだ。それが可能であれば、環境への適応はかなり柔軟性の高いものになりそうだ。
本書では、数十年あるいは数年で生物が都市での新たな環境に高速で適応する姿が紹介されているが、その対応の速さに驚かされる。しかし、それは同時に、都市での変化が生物に強力な選択圧をかけていることも意味するだろう。
また、都市の生態における種の多様性については相反する2つの見方ができる。
ある面では都市での生態系は多様化しているといえる。
ある調査では、この130年間で都市の植物の種類は478種から773種に増大し、逆に周辺の田園では1112種から745種に減少したという。
田園での減少の大きな要因は農業の集約化・効率化であるが、都市においての増大の要因は街区や人工物などにより、生態系が断片化し小さな多様なニッチが存在することになったのことと、多国籍なバラエティ豊かな動植物が流入したことなどである。(この断片化された小さなニッチは時には都市での進化を保護することもある。)
また、ある面では都市での生態系は均質化しているともいえる。
世界中の生物が人間の営みによって、あらゆる場所に進出する機会を持っているし、都市がネットワーク化していることで、都市に生息する生物の環境を形作る新しい技術やそれによる変化は都市から都市へと拡散し世界中に広まっていき、似たような環境を形づくり、生態系は世界規模で均質化していく(遠隔連携(テレカップリング))。
これらはどういうことを示しているだろうか。
都市化が生物に過酷な試練とチャンスを課しているのは間違いない。
人間を生態系工学技術生物の一種に過ぎないと見たときに、人間と他の生態系工学技術生物と違う点は、一つは、人間がその技術を行使する規模を際限なく拡大し続けていることであり、もう一つはその技術の使い方を自ら改変しうるということである。
結果を見る限りどこまで好ましく改変できるかは少し怪しいけれども、後者の可能性については考えてみる余地がある。
「ヒトという種はこの惑星の遺伝子構成を変化させています。他の生き物たちと共進化する責任とチャンスの双方とも、わたしたち人間の手の内にあるのです。人間がこの難題に責任をもって挑戦するかどうか、わたしにはわかりませんが」。アルベルティが指摘する挑戦には、わたしたちがこれから都市環境をいかに設計し、管理していくかという課題への大きな暗示が含まれている。(p.298)
その設計し、管理できるという近代的意識そのものが、人新生といわれるほどまで環境破壊を推し進めてきた要因であるのは間違いない。そこに楽観的に乗っかることには危険性も感じるが、都市化の進展を避けられないものとして(半ば諦めとともに)受け入れたときに、わたしたちにはどのような態度が可能だろうか。
著者の思い
都市の中での自然を理解してもらおうとしたとき、著者は開発者の自然破壊を正当化している、といった非難を受けることが多いという。
しかし、著者は野生の土地を保全する努力の価値を低く見ているのではなく、「世界の膨大な生物種の保全を都市に委ねることはできない」ことは百も承知である。
少年時代に甲虫の採集とバードウォッチングに明け暮れていた著者は、そのフィールドが都市に呑み込まれていく時、
初めてブルドーザーがわたしの活動の場を均し始めるのを、わたしは、両の手を怒りで握り締め、無力さに悔し涙を流しつつ眺め、永遠に失われてしまった自然の仇をとることを誓った。(p.20)
と書いている。
そして本書の最後で、長年、訪問を避けてきたというかつてのフィールドを再び訪れたときは「文字通り胸がえぐられるような思いだった」という。
著者が、都市で繰り広げられる生態系の豊かさに偏りがあることを自覚しつつ、それでも、そこに関わり続けながら本書を記したのは、一生ジャングルに足を踏み入れることのない多くの人が目にする自然は都市の隙間やその近辺であるからこそ、そこにある生態系の面白さに気づいて欲しいからであり、そういった都市の中で新しい生態系が育っていくことを許容する社会を望むからである。(著者は「雑草」や「害獣(虫)」と罵って外来種を根こそぎにするような従来の保全活動を批判している)
私も子供の頃は虫好きで、原っぱや山のバッタや蝶、カブトやクワガタ、田んぼの水棲昆虫、用水路のザリガニを捕まえて来ては家で飼っていたのだけれども、石積みの用水路がコンクリートのU字溝に置き換えられて生き物の姿が消えたときは大人を憎んだものだった。
その後、大人になり、実家である屋久島の農業を継ぐという選択肢をなくし、(鹿児島なので近くに自然は残っているけれども)都市部で生活をするようになってからは、子供の頃の「大人を憎んだ」気持ちはある意味では見ないようにしてきたかもしれない。
本書はそんな自分に、今ここでの身近なところにいる生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれたように思う。
解像度を高め余白を設計する
最後に建築に関するところを書いておきたい。
先に書いたように、著者は都市の中で新しい生態系が育っていくような社会が、例えば都市計画・建築設計などによって達成されることを願っている。
そのために(詳細には触れないけれども)例えば「ダーウイン式都市づくりのためのガイドライン」として、4つの原則、「成長するにまかせよ」「必ずしも在来種でなくても良い」「元の自然を拠点として守る」「栄光のある孤立」を提示している。
ここには、全てを設計・管理「しない」というような姿勢が見て取れるし、著者の、人間や都市を自然と切り離さないで捉えようとする姿勢の中にはモートン的な思想も垣間見えるように思う。
それでは、例えば都市部で設計をすることを考えた時に何が変えられるだろうか。
先程「生き物たちの存在に対する新しい”目”を授けてくれた」と書いたけれども、一つは、都市の中での生き物に対する解像度を高める、ということだろう。
前回のモートンや本書を読んで、生き物やものに対する見方がなんとなくフラットになってきたように感じるし、見方が変わることで設計も少しずつ変えられそうな予感がある。
もう一つは、全てを設計・管理しないような、設計の手法を考えることだろう。
それは、例えば『小さな風景からの学び』のところで書いたような、新しい状況が生まれるような余白を設計するようなことかもしれないし、そこで新しく生まれるかもしれない状況に対する想像力を逞しくするためにも解像度を高めておくことは重要である。
外構または植栽というときには、今はまだ、設計・管理するような思考が強いけれども、それをもう少し崩して、敷地の中に生物の営みを含めた新しい状況が生まれるような余白をパラパラと分散化させるようなイメージが浮かんできた。
そういう建物がまちに溢れて、そこに暮らす生き物たちの(多くの人が気づかないような)進化や営みを見つけてほくそ笑む。そんなことができれば素敵だろうな。
ただし、管理できないものは良くないものとして消し去ろうとする近代的な意識が根強い中で、お客さんにどう理解してもらうかが課題かもしれない。
また、外構や植栽も予算の関係で削られることが多い中で、実現にはコストが一つのハードルになりそうだ。
(著者は「成長するにまかせよ」の原則として「必要なのは何も植えないこと。おそらくは土壌すら加えないこと(p.306)」であると書いているが、それができればコストも抑えられる?)
理解されないかもしれないけれども、うちの事務所兼住宅のわずか2㎡ほどの芝生を貼った場所に、勝手に生えてくる雑草が好きだ。このタンポポも勝手に飛んできて、年に何度も花と綿毛を付けてくれる。また、『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』で紹介されていた協生農法も同じ意味で興味を持ちはじめたところ。