システムに飼いならされないための態度 B324『マルクス解体 プロメテウスの夢とその先』(斎藤 幸平)
本書の帯の推薦文が斎藤幸平氏で、へーっと思っていたけれども、最終的には資本主義に対してどういうスタンスをとるのか。そして、そのスタンスを実効性のあるものにするにはどうすればいいのか、というところにつながらざるを得ないように思う。
終盤の議論は何かヒントになりそうな気がしつつ、まだうまく捉えられていないのでもう少し考えてみようと思うけれども、斎藤幸平氏の本が一冊積読状態になっているのでそっちも読んでみるかな。(現状の非合理的な快適さを乗り越えるには B323『シン・オーガニック: 土壌・微生物・タネのつながりをとりもどす』(吉田太郎) – オノケン│太田則宏建築事務所)
ということで読了。
マルクスの学ぼうとしたことをイメージする、という点で『シン・オーガニック』を先に読んでいたのは良かった。
目次
マルクスというエコロジストからの手紙
私はマルクスについてはほとんど何も知らない。
社会主義国の思想的支柱になった人物で、資本主義に敗れた過去の人では、という漠然としたイメージを持っているだけだ。
それでも、そこに何かがあるかもしれないという期待にひかれてこういう本を手に取ったわけだけど、マルクスの思想が現代にまで届く、これほどの射程を持っているとは予想していなかった。
さて、本書はマルクスに関する最新の研究などから見えてくる、マルクスの本来の思想に迫ろうとするもので、同じ著者による『人新世の「資本論」』のテーマをより専門的に論じたものでもある。
そこから見えてくるのは、マルクスは現代における環境的な視点も含めた資本主義の限界について、徹底的に思考した人であったということだ。
マルクスはその環境的な視点を資本論として完全にまとめ上げる前に没してしまったため、その思想がそのまま20世紀の人々に届くことはなかった。それがMEGAプロジェクトや研究者を通じて21世紀の私達に手紙のように届けられようとしている。
その手紙を著者なりに受け取り、引き継ごうとしたのが本書であり、結果として著者は「ラディカルな潤沢さ」に基づく「脱成長コミュニズム」を提唱する。
それについての解説はここでは省略するが、個人的に興味があるのは脱成長コミュニズムの実現の前に個人の態度として取りうる選択肢にどのようなものがあるか、である。
言い換えると、資本主義というシステムに飼いならされずに、それをずらしながら生きていくための方法とは何か。
結論として、システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションの落とし所としてありうる気がしたので、もう少しこの問題について考えてみようと思う。(システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平) – オノケン│太田則宏建築事務所)
それは、少なくとも個人的な態度表明として自己の中の矛盾を緩和することにつながると思うし、著者が『資本主義社会における人間の「自己制限」は真に革命的なポテンシャルを持つのだ。(p354)』と言うように、社会をより良くしていくためのポテンシャルも含んでいるかもしれない。
システムに飼いならされないために
そこで、まずは、資本主義が要請するもののうち合理的でないものを捉え、その逆張りを考えながら本書の議論を振り返ってみたいと思う。(ここでの「合理的でない」とは、本書に倣い「持続可能性のないもの」としている。)
マルクスは、人間がやがて自然を征服できるようになるというプロメテウス的態度、資本主義のもとでの生産力の発展が、人間開放のための物質的基盤を提供するという史的唯物論の人だと思われてきた。
しかし、実際は、自然科学や前資本主義社会/非西欧社会を熱心に研究した結果、それらの主張を放棄し、異なるビジョンに達していたようだ。
(ちょうど、私自身が当時のマルクスと同じような分野に関心を抱き学び始めたところだったので、共感しながら読めたのかもしれない。少し前なら、実感を持って読めなかっただろう。また、いつものように忘備録的なメモの意味合いが強く分かり難いと思うので、興味のある方は是非本書を読んでいただければ。)
その理解のポイントになったのが「物質代謝論」と「方法論的二元論」である。
物質代謝論
物質代謝とは、人間と社会、あるいは人間と自然との間の物質的なやりとりや循環のことを指す。
このうち、人間と自然との物質代謝はあらゆる生産活動のもとともなる普遍的なものであり、資本には決して乗り越えられず、それなしには人類が存在し得ない根源的なものである。
しかし、資本は自然によって課される絶対的限界を認識できないという矛盾を抱えているため、限界に向けて搾取し続ける。
資本主義的生産の一義的な目的は、資本の価値増殖であり、生産の力を絶えず増大させていく。そして、自然や労働といったあらゆる側面を価値増殖のための手段として従属化・物象化させていく。
つまり、資本は価値増殖という目的のために、世界全体を都合の良い存在へと再編していくシステムである。(実質的包摂)
それによって、物質的代謝に亀裂が生じ、問題を技術的・空間的・時間的に転嫁していくことになる。
【資本主義は自然との関わりにおける限界を認識できず、労働や自然を従属化していく】
→人間と自然との関わり合いを周縁化させずに直接的に向き合うとともに、自然や労働を資本による価値増殖のための手段とする見方を改める。
方法論的二元論
また、資本主義は人間と自然(あるいは資本とそれ以外)を分離した存在とする存在論的二元論と相性が良い。また、マルクスも社会と自然の二元論であると批判されてきた。
しかし、その批判には存在論的次元と認識論・方法論的次元との混同があるという。
マルクスはむしろ、社会と自然とが労働を媒介にして絶え間なく循環していることを描き出そうとした。そこでは社会と自然とは密接に結びついており、存在論的に分けて考えてはいない。
しかし、資本主義の本質を捉えるためには自然認識(存在ではない)が社会認識に強く規定されていることを捉える必要があるため、社会的物質代謝と自然的物質代謝を方法論的(認識論的)に分けて扱おうとした。(方法論的二元論)
このあたりは、あまり理解できていない気もするけれども、存在論的次元を構造・状態、認識論的次元をシステム・はたらきだと考えると、資本主義を捉えようとすることは、システムの問題であるから、認識論的次元で分けて考えてみるというのは、当前なのかもしれない。
(存在論的)二元論は都合が良すぎるし、単純な一元論はなんでもありで物事を捉えることが困難になる。マルクスは、資本主義というシステムを捉えるため、かつ自然を支配可能な他者として扱うことを避けるため、方法論的二元論・存在論的一元論を採用した。そのように理解した。
【資本主義は自然を他者とするような存在論的二元論と相性が良く、それが、物質的代謝の亀裂と転嫁を生む】
→自然を他者として切り離された存在としてみるのではなく、関わり合いの中で捉える。
→社会のあり方が自然のあり方をどのように規定しているのか、システムの問題として捉える。
形態と素材 実質的包摂
マルクスは方法的二元論によって分析する際、「形態」と「素材」に一旦分解して捉える。
形態は社会的物質代謝によって現れる見え方のようなもの、素材は自然的物質代謝に含まれる本質的なもの、という感じだろうか。
マルクスは社会的な形態と自然的な素材に一旦分解したうえで、両者の絡み合いを分析していくわけだが、資本主義的な二元論においては、もともと存在論的に分かれているため、両者の関係は見えにくくなっている。
しかし、実際には、資本主義の原理のもと、社会的形態が変化すれのに伴い、自然的素材も再編され変化している。(実質的包摂)
【資本主義的二元論では社会と自然とが全体的に包摂されていくことが見えにくくなっている。】
→社会的なはたらきと自然的なはたらきを捉えた上で総合的に分析する。
労働と生産力
資本主義の社会においては、労働の形態が資本の原理に合わせて再編されるだけでなく、労働は資本に従属する存在として包摂されていく。
そこでは、人格は物象化され、「構想」と「実行」が分離し主体性が喪失する。
それによって、人間と自然との物質代謝を意識的に制御する力や、資本主義を超えるために必要な想像力と創造力が私たちから奪われていく。
【資本主義は労働の「構想」と「実行」を分離し主体性を喪失させ、人間と自然との物質代謝を意識的に制御する力や、資本主義を超えるために必要な想像力と創造力を奪っていく。】
→労働の「構想」と「実行」を統一し主体性を取り戻す。
→人間と自然との物質代謝を意識的に制御する力や、変革のために必要な想像力と創造力を身につける
原古的な型のより高次な形態
マルクスは前資本主義社会/非西欧社会における人間と自然との物質代謝に基づく持続可能性/定常循環型経済と平等が、共同体の長期にわたる生命力の源泉、資本主義に抵抗する力の源泉となることをみた。
「物質代謝の亀裂」は「自然の生命力」の劣化の現れであり、それとは異なる物質代謝を組織する方法、合理的に規制する可能性を定式化しようとしていた。
そこから、原古的な型のより高次な形態に意識的に「復帰」することを考える。(脱成長コミュニズム)
【資本主義社会は自然の生命力を劣化させる】
→過去の共同体あるいは個人のあり方から、持続可能な社会と自然の関わり合いの方法を学び、アップデートする
富と商品化
資本主義は富の希少性を人工的に増大させる社会システムであり、生産者と生産手段の統一を解体することで、労働力と富を商品化する。そして、社会的・自然的な富の潤沢さが解体されていくことで、個々人の経済的負担が増大し、労働者をより従属させていく。
「公富(使用価値・協働的富・潤沢さ)」と「私富(価値・ブルジョワ的富・希少性)」は逆相関があり、私富が増えると公富は減っていく。資本主義は絶えず希少性を増大させていく必要があるため、いくら生産性を増大させても、潤沢さの約束が果たされることはない。(ローダーデールのパラドックス)
また、マルクスは、資本主義が潤沢さを否定して生み出した希少性を、再否定しコモンズの潤沢さを再生しようとした。(否定の否定)
これは、人工的希少性の超越であって、自然的希少性をも超越するものではない。自然を調節できないというその制約が、むしろ「否定の否定」を要請する。
【資本主義は常に希少性を増大させ続け、生産者と生産手段の統一の解体、労働と富の商品化、潤沢さの解体、経済的負担の増大を押し進めていく】
→希少性や商品化から逃れるため、生産者と生産手段を再統一し、労働や富を資本に差し出さず、潤沢さを手元に置く
さて、ここまでの逆張りを集めてみる。
→人間と自然との関わり合いを周縁化させずに直接的に向き合うとともに、自然や労働を資本による価値増殖のための手段とする見方を改める。
→自然を他者として切り離された存在としてみるのではなく、関わり合いの中で捉える。
→社会のあり方が自然のあり方をどのように規定しているのか、システムの問題として捉える。
→社会的なはたらきと自然的なはたらきを捉えた上で総合的に分析する。
→労働の「構想」と「実行」を統一し主体性を取り戻す。
→人間が自然との物質代謝を意識的に制御する力、変革のために必要な想像力と創造力を身につける
→過去の共同体あるいは個人のあり方から、持続可能な社会と自然の関わり合いの方法を学び、アップデートする
→希少性や商品化から逃れるため、生産者と生産手段を再統一し、労働や富を資本に差し出さず、潤沢さを手元に置く
ここから見えてくるのは、
自然そのもののあり方と人間との関係に常に向き合いながら、過去に学びつつアップデートし、労働や富を自らの手元に引き寄せることで潤沢さを確保しつつ、持続可能な自然の循環を維持するために必要な想像力と創造力を手放さない人、というような人物像である。(まさに身近にいるあの人だ)
この態度は、資本主義の自然・労働・富を従属化・物象化・商品化していく圧力を避け、資本主義の原理とは異なる持続可能な豊かさへと向かうものだ。
ここ数年を振り返る
この人物像をもとに、ここ数年を振り返ってみる。
2年ほど前に二拠点生活を始めたのは、資本主義からずれるための可能性を体験的に理解するためであったわけだが、具体的にはどういうことだろうか。
建築と環境
建築の分野でも環境に対するプレッシャーが年々高まっているが、単に断熱性能を高めるなどでエネルギー効率を高めるだけで良いのだろうか?という疑問が出発点である。
環境の問題に対して本質的に向き合うためには「自然そのもののあり方と人間との関係に常に向き合い」続けるための想像力が必要だと思う。
しかし、内外を明確に分離することによってできるだけエネルギーをかけずに快適性を実現する、という視点だけでは、逆にその想像力を失いかねない。使用するエネルギーを削減する視点、技術は必要だが、常に向き合い続けるための回路が欠けてはいけない。
その結果たどり着いたのが、自然の中の循環システムに倣いながら、生命の躍動感を建築に与えるという方針である。
土と農
また、大地の再生や米作りなどの体験を通じて分かってきたことは、より直接的な自然の循環システムとの関わり方である。
特に、土の中での循環が生命にとって根源的な役割を担っていること、それが都市生活あるいは農業においてさえ、資本主義の原理に絡め取られ従属化されてしまっていること、その理解には経験と知識が必要なこと、などが分かってきた。
これが、そのまま建築に結びつくかどうかは今後の展開次第だが、自然のはたらきに対する想像力を少しずつ取り戻すことにはつながっている。また、宮崎駿が作品に語らせているように、土は循環において根源的な存在であるがゆえ、人は少なくともそこに対する想像力は持ち続けるべきだろう。その想像力さえ失ってしまう社会であれば、やがて綻びが出るのは当然の結果に思える。
主体的労働・時間・スキル
先に挙げたモデルを実現するには、主体的労働・時間・スキルが必須だと思うが、資本主義が奪い続けているものでもある。
労働は、資本の価値増殖のための手段として従属化され、労働の目的は稼ぐためでしかなくなっている。また、それに伴い自由に使える時間も失っていく。さらに、労働の従属化と時間の減少によって、生きていくために必要なスキルはサービス化・商品化され、手元から外部へと移行し続ける。
要するに、稼がなくては生きていけない状態に置かれ続けることで、労働・時間・スキルを失い、さらに稼ぐ必要が高まる、というサイクルの中に置かれている。そこから逃れようとしても、様々なものを外部サービスとして人質に取られているため、簡単にはいかない。
このサイクルからどのように抜け出していくか(ひいては脱成長コミュニズム的な潤沢さをどう担保するか)、が先程のモデル実現のためには重要な課題である。
「あなたはそれができるかもしれないけど、私にはできっこない」と皆が思い込まされていることこそが資本主義の成功の証だと思うが、段階的にでもその思い込みを取り除いていく必要があるし、建築でできることもあると思う。
人質
人質、すなわち先程の思い込みのもとになっているものは何か。考えればいくらでも挙げられると思うがいくつか抜き出してみたい。
主体的労働・時間・スキル
これが人質を人質足らしめている要素だろう。これを失っているため、他の様々なものが金銭を介したサービスに頼らざるを得なくなっている。
教育
子育てをしていると、教育の人質効果はかなり高いと実感する。個人的には、塾や大学に行く前にやることはいくらでもあると思うけれども、自分のことはさておき、子どものためなら資本主義的労働に身を投げることを厭わない、という人が大多数のように思う。教育にいくらかかるという情報は巷に溢れていて、少子化の大きな原因でもあるだろう。また、教育分野こそ、コモンズ的な潤沢さを実現しやすい分野のような気がする。情報技術が発達した今、国がその気になれば、たいした予算をかけずとも塾に置き換わるようなシステムを組むのは簡単なことだと思うし、大人が自由な時間をとれるようになれば、無料の寺子屋のようなものがもっと増えるかもしれない。それ以前に、教育によって子どもたちに何を伝えていくべきか、という議論はあるべきだけど。
住宅
長期のローンを組む、あるいは毎月それなりの家賃を払い続ける。住宅も人質の一つであることは間違いない。私自身がここに関わっているので、住宅の商品化の恩恵を受けているのは否定できないけれども、もっと負担が少なくできると良いのに、と思う。そのために、住宅の商品という性質を剥ぎ取り、もっと自分たちの手でできるようにしていきたいと思っているが、ここでも【主体的労働・時間・スキル】の喪失が大きな壁になっている。それが、こういう本を読んでこんなことを書いている動機でもある。
食
今年は米作りなんかもやってみたけれど、皆も試しにやってみればいいのに。と思う。(実際に作物を作ってみると、安価で流通している食材の多くがどれほど資本主義の原理に侵されているかを実感する。)
その時間が取れないというのも壁であるわけだけど、やってみることで実感として掴めることは多い。また、この農についてやってみる、というのは脱成長コミュニズム的な社会の足場になる可能性を持っていると思う。
脱成長コミュニズム的な社会の足場
今年はじめて米作りをしたところ、「それじゃ俺達もやってみるか」と(と思ったかどうかは定かではないけど)、集落のご年配の方(少し前まで米作りをやっていた方と、他の仕事で米作りをしたことがなかった方)が共同でまた米作りを始めることにしたらしい。
それで、知り合いからトラクターを借りて使えるようにするそうで、「太田さんも覚えてみれば」と、米作りをしたことがなかった方と一緒にトラクターの運転のレクチャーを受けることになった。
米作りを始めるためのハードルの一つが、トラクターなどの大型機械の保有にあることは間違いない。(今年は、近所の人にお願いしてやってもらったけれども、ここが米作りの経費のかなりの部分を占めた。不耕起の考え方はここでは置いておく。)
けれども、こんな風に、お互い持っているものやできることを出し合って共有すれば、各人の負担も減らせるし、コミュニケーションの機会にもなる。これは、脱成長コミュニズム的な社会の足場となりうるのではないか。
そもそも、事務所がある集落では、ほとんどの人が、別に仕事をもっており、米作りは週末などに行っている。どうも稼ぐことが一番の目的ではなさそうだ。
費やす時間で考えると採算は合わない人がほとんどだと思うので副業というわけでもない。代々の田んぼだから、あるいは自分で作ったものが美味しいから、といった、金銭とは関係のない何かしらの理由でやっている人がほとんどで、主体的労働・時間・スキルを注いでいる。
ある意味では資本主義的な原理から外れた活動なわけで、それがこんな身近なところで実践されている。ここにも脱成長コミュニズム的な社会の足場のヒントがありはしないだろうか。(その足場も放っておけば、近い将来その多くが消えていく・・・)
おわりに
今回もつらつらと思いつくままに書いたけれども、来年はここで考えたようなことをもっと建築に置き換えられるようにしたい。
なので、読書の時間をしばらくは減らしてみるつもり。
皆様良いお年を。