SILASU 社会科見学 vol.1 しょうぶ学園 に行ってきました。
SILASUによるイベントがしょうぶ学園であったので行ってきました。
■FACEBOOK : SILASU 社会科見学 vol.1 しょうぶ学園 アール・ブリュットのお話と工房しょうぶを訪ねる
孤独ではなくハッピーを
工房の見学ツアー・トークライブ・ottoによるミニライブと内容盛りだくさんだったのですが、しょうぶ学園施設長の福森さんの話は前からお聞きしたいと思っていたので楽しみにしていました。
というのも、10年前、GOODNEIGHBORS JAMBOREEのotto&orabuのライブで衝撃を受けて、しょうぶ学園が気になりだしたのですが、以前、福森さんがアフォーダンスという言葉を使われているのを見て、これは一度お話を聞かなければ、と思っていたので。
今日、お話を聞きながら頭に浮かんだのが、保育における環境構成論(これも理論的背景にアフォーダンスがあります)と発達保障理論(話を聞きながら、これを書いたの、もしかして福森さんだったのでは、と確認したくらい)でした。
スタッフが利用者のやりたいことを引き出すように環境を整える役割を担う、というのは保育における環境構成論にそのまま重なるように思います。
ただ、保育の場合はそこに発達という目標が見いだせるけれども、しょうぶ学園のスタッフの方は、例えば関わるモチベーションとして何に向かっているのだろう、と思った時に、福森さんの話を聞いて浮かんだのが「発達保障理論」でした。
一般社会にあるような評価は軸の考え方次第で個性と捉えなおせるのだとしたら、その個性を伸ばそうと向き合うのも目標になりうるのかなと。
理屈としてはそんなことを考えたのですが、福森さんの話を聞いていると、健常者と障害者、サポートする人とされる人、というような関係は簡単に反転され無効化されますし、理屈よりもまず、実践されていることそのものの強さ・価値をまざまざと感じ取らされて、スタッフと利用者の関係性がとても羨ましく思えてきます。
工房で見た作品たちを見てため息がでるのも、そこに個性と、個性を個性のまま認めてくれる人の関係性を感じて、羨ましく思えてしまうからなのかもしれないですし、それを感じたくて、ここを訪れる人もたくさんいるんだろうな、と思いました。
また、福森さんは、今回のテーマであるアール・ブリュット(鑑賞されることを目的としない純粋で生の芸術)という言葉を使わない、という話も印象的でした。
アール・ブリュットが孤独感や危機感から逃れるためにつくられるとすれば、福祉の視点からは(例えそれに心を動かされたしても)それを絶賛することはできない。孤独や危機感を開放するのが福祉。環境として仕掛けていくことで作品が生まれることがあるけれども、それによって、孤独ではなくハッピーにならなければいけない。
というようなことを言われたのですが、otto&orabuや工房の作品に感動させられるのは、こういうことなんだな、と思わされました。やっぱり羨ましいなー。とも。
まだ、書いておきたいことはいろいろありましたが、アール・ブリュットのことや、建築をつくることとの関連は、会場で買った2冊の本を読んだ時に書けたらいいなと思います。(『アール・ブリュット』エミリー・シャンプノワ (著), 西尾 彰泰, 四元 朝子 (翻訳) と 『ありのままがあるところ』福森 伸 (著))
読むのが楽しみです。