園に求めるべき空間の質は何か:「素敵な施設」と「おおきな家」
保育施設について考えていく上で、数多くの事例を見ましたが、個人的に魅力を感じるものと、そうでないものとはくっきりと分かれました。
その理由は何でしょうか。
以前、
良いと思ったものは、プランや断面、構成要素の分節が上手く、大断面集成材による大空間のスケールから、グループにマッチする少し大きなスケール、日常的・家庭的なスケール、子どもが籠れるような小さなスケール、と多様なスケールを感じられるものが多かったです。(大空間のスケール/子どものスケール B206『KES構法で建てる木造園舎 (建築設計資料別冊 1)』(建築資料研究社) – オノケン│太田則宏建築事務所)
というようなことを書きましたが、何か大事なことがありそうですので、もう少し考えてみたいと思います。
「素敵な施設」と「おおきな家」
例えば、象設計集団のつくる建物は昔から好きなのですが、これらが持っている質を備えた保育施設を、象がいうところの「おおきな家」としてみます。
一方、あまりピンと来ない建物には、家というよりは、「施設」としての何かを感じます。
きれいに整っていて、天井も高く広々としている開放的な空間。おそらく多くの大人の人は、素敵な印象を受け魅力を感じると思います。そういう建物を「素敵な施設」としてみます。
この「素敵な施設」は、そのまま子どもの育ちにとって素晴らしい空間と言えるのでしょうか。
少なくとも、私は子どものための建物としては、そこにあまり魅力を感じないのですが、現段階ではうまく言葉にできていません。
それを、なんとか言葉にすべく、思いつくままに書いてみます。
記憶とスケール
自分の子どもの頃を振り返ってみて、鮮明に記憶に残っている風景がいくつかあります。
一つは、保育園に通っていた頃、園で開催された夏祭りのようなイベントの風景で、園舎が、金魚すくいや、お化け屋敷、その他さまざまな出し物で賑わっていて、すごくワクワクしたのを覚えています。
もう一つは、小学校の頃に自転車で走り回った、古い商店街の通り。そこに一つのまちの世界のようなものを感じていました。
私は、中1の時、幼い時を過ごした奈良県の田舎を離れて屋久島に引っ越したのですが、大阪の大学に入学した際、懐かしい風景を見てみたいと上の2つを見に行った事があります。
だけど、そこにあったのは、すごくちっぽけな小さな保育園と、路地裏のような狭い道を挟んだ廃れた商店街でした。あんなに大きな世界だと感じていた風景のスケールが、記憶に比べてあまりに小さくみずほらしいことにびっくりしたことを覚えています。
当たり前のことかもしれませんが、子どもの頃に感じていた世界のスケールは、大人の感じている世界のスケールと大きく異なっていた、というか、全く別の世界、パラレルワールドのように感じていたのです。(そんな風に感じた経験はありませんか?)
(明確な根拠はありませんが)おそらく、体験の質に応じて、それが記憶に残るスケールのようなものがあるのだと思います。
もし、先の2つの事例がもっともっと大きなスケールの中での出来事だとしたら、おそらく、自分のリアルな体験としての実感が乏しく、何か別の世界の出来事のように感じて記憶に深く残ることはなかったのでは、という気がするのです。
広く開放的な空間だからこそ記憶に残る体験、というのもおそらくたくさんあると思いますし、そのような空間の意義もあると思いますが、そうではない子ども独自のスケールでしか、リアルに没入できないような体験もたくさんあると思うのです。
多様なスケールの存在が、子どもの体験を豊かにするのは間違いないと思いますが、建物を「施設」として捉えている限りは、大人の世界のスケール感に縛られ、子ども独自のスケール感による世界を見落としてしまうような気がしています。(これを抜け出すには、自分自身が子どもになりきってイメージしてみるしか方法がなさそうですが・・・)
住宅設計で手放したものと大切にしているもの
また、建築を学び始めた頃には、作品性が高くある種の緊張感をまとったような住宅にも魅力を感じていましたし、建築としての評価軸にはそういった作品性があり、自分もそれを身につける必要がある、といわば強迫観念のように思っていた時期もあります。
と、同時にそうでない住宅にも魅力を感じていたりしたのですが、実際に、自分が設計するようになると、この作品としての緊張感のようなものの多くは手放してしまいました。
ポイント的に緊張感をもたせることで、メリハリや深みを出す、というようなことは意図的に行ったりしますが、緊張感を主題にすることで見えなくなってしまうことの方がはるかに大きいような気がしたのです。
その代わりに大切にしていることは、例えば、人の気持を受け止めるような柔らかくムラのある素材や、緊張感をまとわないで心地よく感じるような、ギリギリの秩序とそこからの逸脱する何かです。
つまり、観念的な作品性よりは、そこにリアリティがどう宿るか、というようなことを、より大切にしていると思っています。
これは、先程の記憶とスケールとも関連があると思うのですが、子どもの空間で考えた場合も、その空間にリアリティを感じられるかどうかで、空間が記憶に残るような没入の支えになるかどうかが変わってくるように思うのです。
ここでも、建物を「施設」と捉えている限りは、前回、探索環境保障理論と個性についてで書いたような、線的な評価軸に支配され、面的な広がり、つまり個性を保障するような方向にはいきにくいような気がします。(線的な評価軸を逃れて、面的な広がりで物事を捉えるのは、慣れないと、恐ろしく高度な思考方法に感じるかもしれませんが・・・)
園に求めるべき空間の質は何か
つまるところ、園に求めるべき空間の質は何か?
それは、おそらくリアリティのようなものだと思います。
しかし、現代社会に慣れきった私たちにとっては、リアリティほど掴むことが難しいものはありません。おそらく、子どもたちにとってもそうだと思いますが、だからこそ園に欠いてはいけないものだと思います。
「素敵な施設」の背後にある精神は「サービス」です。サービスは与える人と受け取る人が分かれることで成立しますが、サービスを受け取るという受動的な姿勢からリアリティを掴み取ることは困難ですし、面的な発達につながる探索とは真逆の姿勢と言えます。
一方、「おおきな家」の主役は住民たる子どもたち自身です。そこには、与えられるサービスではなく、子どもたちが自ら探索し関係を深め合う環境のみがあるのかもしれません。
さて、結局何が言いたかったかというと、魅力的に感じる園は総じて、子どもの多様な発達を保障するような視線に溢れていて、リアリティを感じさせる建物だけど、そうでない園はどちらかというと、大人の目から見た視線で溢れている、ということです。
常に前者の視線に立ち返ることは、慣例的でない思考をその都度行う必要があります。なかなか大変かもしれませんが、園の設計を行う上では最も大切な事かもしれません。