B036 『つくりながら考える・使いながらつくる』
山本 理顕、山本理顕設計工場 他
TOTO出版(2003/02)
邑楽町の新庁舎コンペが白紙になったのは非常に残念だ。
正確なことはわからないが、建築が相も変わらず政治の道具と考えられているようでとても悔しい。
このコンペの開催趣旨自体がそういう業界の悪癖を抜け出しユーザーに開かれたシステムを求めると言うもので、前町長の懐の深さを感じさせるものだったために、悔しさはなおさらだ。
ところで、本書はそういう町長問題が出る前にだされたもの。
山本とスタッフとの会話と言うかたちの本で、邑楽町の計画についても語られている。
山本の問いかけは次の文章に表れていると思う。
僕なら僕がスケッチを描いて、できるだけそのスケッチに忠実なものができあがるというような方法がもう確実に限界にきていると思うんですよ。20世紀までの社会に比べてはるかに複雑になっているし、でも、その複雑さをシンプルなものにしてしまうんじゃなくて、そのまま引き受けることができるんじゃないかと考えたとたんに、多少は展望が開けてきたようにも思う。最初のスケッチにももちろん責任持つけど、でもその最初のイメージが変わってしまってもいいと思う。何よりも最初に描いた僕自身が変わってしまうことが面白いと思うんですよね。
おそらく、「スケッチに忠実な」建築が一般の人々と距離がある・閉じた世界の出来事でしかなくなっている。というようなことに限界を感じているのだろう。
自由に変化することで建築のもつ不自由さをいくらか払拭できるかもしれない。
しかし、今の建築の作られ方は変化に対応しにくくなっている。となると、つくるシステム自体に切り込んでいく必要がある。
(なかでも特に変化に対応しにくいであろう公共施設の分野で新たなシステムを提案できたところに邑楽町の価値があると思うのだが、そういうものは既存のシステムに依存する人には余計なお世話なのだろう。)
ただ、複雑なものをシンプルにしたいと言う未練は少し残る。
それによっても距離をうめる道はあるような気もする。
建築の設計をするということはコミュニケーションそのものなのである。
コミュニケーションの方法が建築の方法と深く関わっているらしい。・・・・(埼玉県立大学のモデュールとレイヤーというシステムは)建築をコントロールするために、きわめて有効なシステムだった。ところがそれだけではなくて、それが同時にコミュニケーションのための重要なツールになったのである。
システム=設計ツール=コミュニケーションツール
システムを一般の人とのコミュニケーションギャップを埋めるツールとすること。
それは、建築を今後成立させるためには必要なことかもしれない。
例えば、内藤廣のような建築のあり方・その空気感を生み出すにはおそらく個人のもつイメージに頼らざるを得ないように思う。
それは、山本のアプローチと対極にあるのだろうか?
それとも何らかのかたちで共存できるのか?
求めているものがそもそも違うのか?
建築は結局は空間でしか会話ができない気もする。
精神の開放のために空間の質そのものに頼るのか。
システムを開放することで建築そのものから開放するのか。
このあたりをじっくり考えてみる必要がありそうだ。