一 出会いについて
建築の意味と価値
「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」と言ったとき、その意味と価値とは何を差すのだろう。
建築の意味といってもなんだか良く分からない、という人が多いかもしれないけれども、とりあえず「建築の意味とは、その建築にどんな出会いがあるか、その可能性の集まりのこと」としておきたい。
意味が豊富な、つまり、出会いの可能性が豊富な建築は、それだけで豊かだと言えそうだし、意味の豊富さはその建築を知りたいというきっかけ、動機になる。
同じように、「建築の価値とは、その建築に含まれる出会いによって何が得られるか、その可能性の集まりのこと」としておく。
価値の大きな、すなわち出会いによって得られるものが大きかったり多様だったりする建築は、言葉の繰り返しになるけれども、価値ある建築だと言えるだろうし、価値の大きさは、その何かを得ようとする行動のきっかけ、動機になる。
例えば、「この建築は文化的に意味と価値がある」と言った場合には、その建築で文化的なものに出会うことができ、そこから、何かしら文化的なものを得ることができる。ということになる。また、その文化的なものに関心のある人はその建築をもっと知ろうとするだろうし、自分たちの集団にとってその建築から持続的に文化的価値を得続けることに意義がある、と認められれば保存や活用をしていこう、ということなるかもしれない。
もし、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」ということが一つのモノサシとして多くの人に共有されるようなことになれば、そこでの出会いと得られるものを整理しながら記述していくことで、その建築の意味と価値を共有したり、議論したりすることができるようになるんじゃないかと思ったりしている。
生きる基礎としての出会いと価値
では、建築における出会いとはどういうものを指すのだろうか?
ということを考えたいのだけれども、その前に、人にとっての出会いはどういうものか、を考えてみたい。
ちょっと回りくどく、分かりにくいかもしれないけれども、出会いが必要だ、と言うためには大切なことだ。
僕たちは、日々、さまざまなものと出いながら生活をしている。そして、意識するかどうかに関わらず、その出会いの中から意味を探り、自分にとって価値のあるものを選び取ることで生きながらえている。
出会うことは人が生きていくための基礎であって、出会うこと=生きること、と言っても良いくらいに大切なことだ。人は(人に限らず全ての動物は)出会い、選択することなしに、生きていけないのだから。
つまり、人にとって出会いそのものが価値だと言える。そうであるなら、人は無意識的であっても出会いを求めるだろうし、進化論的に言うと「環境の変化の中、適切に出会い、価値を得ようとする動機を持つものが選択的に生き残ってきた」とも言えるだろう。また、経験を通じて、適切な出会いと結びつくように学習・成長もするだろう。
もし、周りを見渡しても、何も出会いがなく、意味も価値も読み取れないとしたらどうだろう。または、同じようなものばかりで、多様性もなければ選択肢もないような状況に投げ込まれたとしたらどうだろう。たぶん、そんな環境は耐えられないんじゃないだろうか。逆に、雄大な自然に包まれた時のように、例え自分にとっての直接的な価値はなくても、その場所が多様な出会いに満ちていたとしたらどうだろう。そこになんとも言えない心地よさを感じたりしないだろうか。出会いを追い求めるのが生きていくための術だとしたら、出会いとある種の感情(例えば悦び)が結びついたとしても不思議はないように思う。
つまり、出会いは生きていくことの基礎であって、出会いそのものが価値であり、時に感情とも結びつく。
他のあらゆるもの(音楽や文学、芸術などに限らず、身近ななんでもなさそうなものであっても)と同様に、建築を通じてさまざまなものと出会うことができるし、何かを得ることもできる。それは、建築が生きていくことの基礎に根ざしているということであり、建築の存在そのものが価値や悦びに結びつくかもしれない、ということだ。
人は建築で、生きることの悦びと出会う。
直接的な出会いとリアリティ
出会いには直接的な出会いと間接的な出会いがある。
直接的な出会いは、直接向き合うことができる出会いであり、それをどこまでも細かく調べようとすることができる。
間接的な出会いは、他者によって何かしらのかたちで切り取られたものとの出会いであり、その切り取られた範囲以上に向き合い調べることはできない。
例えば、「リンゴ」という文字やリンゴの写真は、文字や写真そのものとは直接的に出会うことはできるけれども、リンゴそのものとは間接的に、一定の範囲でしか出会うことができない。
では、動物の生存にとって、直接的な出会いと間接的な出会いのどちらが重要だろうか。単純に考えたら直接的な出会いだろうが(リンゴは食べられるけれど、リンゴの写真は食べられない)、人のような社会性を持つ動物にとっては間接的な出会いが可能性を押し拡げるかもしれない(リンゴの木のありかを示した地図は食べられないけれども、たくさんのリンゴを食べられるようになるかもしれない)。どちらが良いとは言う話ではなく、それぞれ役割が違うということかもしれない。
だけども、どちらにリアリティを感じるか、と言えば直接的な出会いの方だろう(リンゴの写真には写真としてのリアリティは感じるけれどもリンゴとしてのリアリティは感じない)。
この、どこまでも細かく調べようとすることができるという可能性の存在が、人との結びつきを強め、直接的な出会いにリアリティを与えるのかもしれない。また、そうだとしたら、どこまでも調べようとするような、能動的な姿勢がリアリティを引き出すとも言えそうだ。
(例えば、リンゴとリンゴの写真を全く同じ見え方になるように二つ並べて、それを、周りの環境変化がない部屋で、全く頭や眼球を動かすことなく眺めたとしたら、すなわち能動的な働きかけを禁じたとしたら、おそらくどちらが本物か判別ができないだろう)
このリアリティの感じ方の差は、今後、技術によってどんどん埋められていくのだと思うけれども、まだ直接的な出会いの持つリアリティの方に分があるだろう。建築にはさまざまな直接的な出会いが埋め込まれている。それゆえ建築は、これからも人々のリアリティを支えるような役割を担っていくのだと思う。(技術によって、間接的な出会いのリアリティが直接的な出会いのリアリティを凌ぐようなことがあれば、違う可能性が無限に広がりそうだ。そうなれば、建築の役割は何か、という問いをより強く突きつけられるんじゃないだろうか。)
建築で人は、リアリティと出会う。
メディアとしての出会いと超えていく力
また、出会いはメディアである。そこにある出会いは、他の人も出会うことが出来るのだ。
例えば、みる人に感動とインスピレーションを与えるような絵画が描かれたとする。それを見た他の誰かが、何かを受取り、新しい他の何かを生みだしたりするかもしれない。その誰かは、言葉の通じないような他の民族かもしれないし、ずっと後の時代の、全く別の場所の誰かかもしれない。
こんな風に、出会いは、時間、空間などさまざまなものを超えていくことのできるメディアであって、そこでコミュニケーションが発生したりする。
建築は長い間そこに存在し続けることのできるメディアである。古い建築を通じて、何百年、何千年も昔から今に至る間の何か、例えば当時の社会状況や価値観、職人の技術や思考など、さまざまなものと出会うことができるかもしれない。または、今作ったもの、今使っているものと、何百年後の誰かが出会うかもしれない。そういう役割を担っているとも言えそうだ。
建築で人は、時間や空間、個人の殻や社会的な壁など、さまざまなものを超えて、さまざまに出会う。
共有物としての出会いと倫理
さらにもう一つ。出会いは共有物である。
人が他の動物から突出しているのは、人は集団として出会いを共有化し蓄積してきた、ということだ。
人は個人として何かと出会い、価値を得、学ぶだけではなく、それを、例えば知識や文化・技術として、文字や言葉、言い伝えや祭り、教育システムや師弟システム、その他さまざまなものに埋め込んでいく。そうして埋め込まれたものを蓄積し、更新していくことによって、人間の集団は文化的・歴史的に発展してきた。
そこで、人は個人として出会いを求めるだけでなく、集団としても出会いを求め、共有物としての出会いを蓄積しながら集団に還元していく。それは、メンバー各々の出会いの可能性を担保しようとすることでもある。変遷する多様な世界で、多様な人々が多様に生きていくには、多様な出会いの可能性が社会に存在している必要があるのだ。
そういう風に、集団が出会いを共有化・蓄積していくことは社会的倫理なのである。
そして、先に書いたメディアとしての建築の、長く存在し、さまざまなものを超えていく力は、この集団(社会)の共有物としての出会いを建築が担えること、建築が倫理的な存在であり得ることを示しているし、建築をつくり守ることによって、個人に「その社会的倫理の一端を担っている」という悦びを与えるものでもある。
人は建築で、可能性と社会の倫理と出会う。
出会いはなぜ重要なのか
出会いはなぜ重要か。
それは、出会いが生きる悦びやリアリティ、社会や文化といったものに、アプローチするための足がかりを与えてくれるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築の存在に対する肯定的意味や社会的役割のようなものを見いださせてくれるからである。
しかし、その重要性は建築の専門家だけのものでは決してなく、社会の一員である多くの人々にとっても重要な事だと思うのである。