オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論
このところ、鹿屋だとか川内とかの鹿児島の中心部から少し外れたところがなんとなくアツく感じてて、それについてずっとぼんやり考えてたのですが、ブログやツイッター、メールでの一連のやりとりで自分なりに思うところがあったので、これまた投げ出し気味に仮説として書いてみます。
枠組みよりもぽこぽこ
コミュ二ティについてはずっと前から様々な議論がなされてきてると思いますし、僕も大学の卒論でコミュティに関することを書いたのですが、コミュニティという言葉にはイマイチ”実感”が伴っていませんでした。
だけど、このごろぼんやりとですが、中心部よりもう少し小さいスケールの場所でコミュニィティが新しい求心力を持ち始めているんじゃないかという”実感”があります。
なんでだろうと考えてたのですが、一連のやりとりでコミュニティへのアプローチの仕方・捉え方が違ってたのかなと気づきました。
今まではコミュニティについて考えるときにまず、まず枠組みのようなものを与えてそこから考えがちだったのですが、実は枠組みは一時的な結果でしかなく、それよりも、例えば自発的な楽しいとか、嬉しいとか、綺麗だとかそういう小さな出来事が”ぽこぽこと発生している”ことが一番のポイントなんじゃないだろうか。と思い始めています。
今までは都市部において経済規模の大きさ・情報量の多さによってこの”ぽこぽこ”が可視化されやすかった、もしくは捏造可能だったために魅力的に感じて田舎から都市部への移動が多かったと思うのですが、田舎でも可視化されなかっただけで都市部と同じように、もしくはそれ以上に”ぽこぽこ”自体やその可能性はあったのだと思います。
それが都市部と田舎との情報格差が比較的小さくなりメディアが細分化されるなかで、田舎でも”ぽこぽこ”が可視化されるようになってきています。特にツイッターはまさにその小さな”ぽこぽこ”を可視化するためにあるようなツールでこれによって、田舎の、それもより身近に感じるような”ぽこぽこ”が一気に視覚化されだしてるように思うのです。きっと、僕がそれに触れる機会が増えたので”小さいスケールの場所でコミュニィティが新しい求心力を持ち始めている”というような”感覚”を持つに至ったのではないだろうか、というのが今回の最初の仮説。
たとえば観光とかコミュニティとかの話の時に点→線→面というようなことがよく言われます。面が大事だよねと。だけど、点がないと線も面もないわけで、いきなり線や面から入っても点がこぼれ落ちてしまいます。もっというと、線や面は点の集合が描く一時の結果でしかない。さらに言うと点自体も一時的なものでしかなく持続していくには点・線・面が現れ続ける事が必要です。
オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論
そういうようなことを考えたら、ちょうど先週からちゃんと勉強し直そうとやり始めたオートポイエーシス・システムに似てるんじゃないかという気がしてきました。(勉強中ですので間違いあれば指摘してください。また、後で内容を修正するかも知れません)
オートポイエーシス論入門(2010/山下 和也)によるとオートポイエーシス・システムの定義は
オートポイエーシス・システムとは、産出物による作動基礎付け関係によって連鎖する産出プロセスのネットワーク状連鎖の自己間欠的な閉域である。閉域形成に参与する産出物を構成素と呼ぶ
とあります。
なんのこっちゃ、という感じでしょうが、要件をいくつか端折って書くと、あるシステムが何かを産出し続けることができるとすれば、そのシステムはオートポイエーシス・システムと言える。
産出されたものは消えることも残ることもあるけれども、その産出されたものの関係性・システムの中からまた次のものが産まれる。それが連鎖してつづいている限りシステムは存続し、産出が止まるとシステムは消失する。
また、次のものが産まれることに関係する産出物が構成素と呼ばれる。全く次に参与しない産出物もある。
なんとなく生物をイメージすれば分からないでしょうか。細胞やら器官やらを絶えず産出し続け入れ替わりながら維持されるシステム。
ここで重要なのはオートポイエーシス・システムは産出物や構成素などの要素のことでも、要素の全体の構造のことでもなく純粋にシステム、産出する働きのあり方のことを指し、この捉え方が全く新しい目線を与えてくれるのですが、今までのものの見方をひっくり返すような過程がいるので、それをここで誤解なく理解してもらうのは多分ちょっと無理です。
無理なのですが続けます。
さっきの、自発的な楽しいとか、嬉しいとか、綺麗だとかそういう小さな出来事をぽこぽこと発生させているシステムを「ぽこぽこシステム」と呼ぶとします。
ぽこぽこと発生しているのは産出物で、そのうち次のぽこぽこに参与するのが構成素です。
そして、ぽこぽこが続いている状態はシステムが生きてますが、ぽこぽこが止まると死にます。瀕死の状態とか絶好調とかもありそうです。
ここで、さっきの都市部と田舎の話に戻ると、以前は都市部はぽこぽこシステムが盛んに機能していたと言えるでしょうし、田舎では控えめにしか機能していなかったと言えそうです。
それが、都市部のぽこぽこシステムは少し古臭くなって前より若干機能しづらくなってるように思います。捏造的ぽこぽこもちょっと苦しくなっています。
逆に一部の田舎では部分的にですがぽこぽこシステムが活発化しているところもあるように感じます。
なぜ活発化してるかというと、今までであれば次につながらずそれっきりだったぽこぽこ(産出物)が、さっき書いたような「ぽこぽこの可視化」によって誰かの刺激になったり、場の空気を変えたりして次のぽこぽこに何かしら関係する(構成素になる)可能性が増したからです。
田舎ではぽこぽこシステムにあまり参与することのなかったぽこぽこが、可視化によってシステムの活性化に貢献しだしている。
たこ藩現象について
また(大げさな)ローカルネタですが、川内でたこ藩現象(阪ではない)とも呼べる現象が起きています。
たこ阪という店(藩)に集う人たちが何となく”川内アツイ”という雰囲気を醸し出してるのですが、これは局地的にぽこぽこシステムが活性化しているからではないでしょうか。
たこ阪さんのさじ加減が絶妙で、今までの感覚だと「もっとバシッと枠組み与えてドンッと行けば」と思いそうなところを(実際そう思うこともありました)、ぽこぽこが自然発生することを阻害するような固定的な枠組みができないように、何となくのらりくらりとさじを振ります。
たこ阪さんに自主強制的?につくらされたボットももしかしたらぽこぽこシステムに載せられたのかもしれません。(ボットはだいたい罪悪感と共にあるもんですが、このボットはあまりないです)
たこ阪さんはなんでこんなことができるのか不思議なんですが、やっぱりそういう勘を絶えず磨いてるからなんでしょうね。
いえ、これに関してはたこ藩現象を自分なりに説明してみたかっただけですが。
ぽこぽこシステムという視点
少し戻って、マチをぽこぽこシステムという視点で評価できるとするならば、例えば建築やイベント、まちづくりの施策等を考える場合に如何にぽこぽこシステムを持続・活性化させるかという視点が生まれないでしょうか。(当然この指標が全てではなくある側面を評価することしか出来ないという前提でですが)
個々の要素や集まりを活性化させるというよりはシステムを活性化させるという視点。それはおそらくコミュニケーションに関わる視点だと思います。
ただ、オートポイエーシス・システムは観察・予測・コントロールができないというように『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方(2004/山下 和也)』には書かれていたので、どうアプローチできるのかはもう少し探求しないといけませんが社会システム論としても展開されているのでいろいろとヒントはありそうです。
前回のポストとそれに対して頂いたリアクションの次を考えるときに、ぽこぽこシステムを活性化させるような視点から可能性を探せないかな、と今思っているところです。
コミュニティの力
そんなことを考えてる時に、昨日マルヤガーデンズでジェフリー・アイリッシュさんと山崎亮さんの対談がありました。
びっくりするくらいタイムリーなゲスト。
いろいろな発見や確認できたことがあったのですが、その中でジェフリーさんの「集落に入って最初にやったのが住民の方々を撮った写真展だった」という話はまさに”ぽこぽこの可視化”だなと感じました。
また、今回のトークサロンのメインテーマは『つなげる、つながるーコミュニティの力ー』でした。そこで僕の感じた『小さいスケールの場所でコミュニィティが新しい求心力を持ち始めているんじゃないか』という感覚、コミュニティの力とスケールの問題についてジェフリーさんや山崎さんはどう感じているんだろうか、また、同じような実感があるとしたらその理由は何なのか、というようなことを聞いてみたかったです。(その時はうまく整理できてなかったのとタイムオーバーと個人的事情で聞けず)
皆さんはそのような実感はないでしょうか。
—-追記—-
ここに書いてることはちょっと似てると思うし、参考になりました。
■すべてはコミュニケーションのために – 403 architecture