屋上の魔力

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あるきっかけがあり「屋上」と「自由」について考えてみたくなった。
ミーハーだけど、僕の「自由」に関する考えは宮台真司の影響が大きいようだ。


学生のころ神戸の殺人事件があり、建築について悶々としていた時期に、友人に進められて『世紀末の作法』を読んだ。

そこにあった『「屋上」という居場所』という文章で僕は初めて「建築」と「機能」や「自由」の関係を考えたのだ。

(思えば「酒鬼薔薇」と宮台を知らなければ問題意識を持つこともなく、今頃はのんきにそして優雅に暮らしていただろうに・・・・(kazutoよオアイコかいな?))

『世紀末の作法』は手元にないので検索してみると、こんな学生コンペが引っ掛かった。(最近、あまり念入りに雑誌を見ないので知らなかった・・・)

コンペのテーマ、まさしく宮台真司の文章だ。

原文も宮台のブログに載っていたので読んでみたが、『世紀末の作法』の『「屋上」という居場所』の趣旨もほぼこういうことだったと記憶している。

このブログで今考えていることを見てみると、10年ほど前に読んだこの本の影響の大きさにびっくりした。

「自由」の感じ方にまで影響をうけている。

■教室にいれば学ぶ人。廊下にいれば通行する人。校庭にいれば運動する人。どこも機能が指定され、そこにいるだけで機能を担わせられる。屋上は違った。そこは機能の空白。どこでもない場所。どこでもない場所で、何でもない人になって、解放される──。
■しかし、やがて人々は、どこでもない場所に、何でもない人が集まること自体を、不安がるようになった。集合住宅の屋上はロックされ、学校の屋上はバスケットコートになったりプールになったりと、機能化された。かくして最後のどこでもない場所が消去された。
■空間の機能的意味が明確になると、人は一方で自由になり、他方で不自由になる。近代化へと向けた動きは、不自由のマイナスより、自由のプラスを評価する価値を一般化した。さて、いったん近代化を遂げた人々が、いつまでも同じ価値観に拘束される必要があるか。
■イエやウチが「住宅」になったとき、人は、一方で自由になり、他方で不自由になった。何が不自由になったのかを記憶する人々が、社会からどんどん退場していく。だからこそ、いま「溶解する境界・あいまいな場所」なのだ。私たちの歴史意識が問われている──。
MIYADAI.com Blog より

青木淳の著書などにも似たような視点が見られるように、自由や便利さを求めるゆえの「不自由さ」窮屈さを感じることは今の時代ではありふれた(しかし、自覚するにはなかなか至らない)感覚なのかもしれない。

それにしても、屋上はどうしてそこまで「自由さ」(に近い特別の感覚)を感じさせるのだろうか。

単に「脱機能化」された場所というだけ以上のものを僕は感じてしまう。(そこがビアガーデンやイベントスペースであっても、僕にとっては特別な場所なのだ。)

ちょっと自分の経験と感覚を思い出してみよう。

10数年前とつい最近、屋上について特別に感じたことがある。

ひとつは高校時代。
寮生活だったのだが、先輩後輩の関係が厳しく1年生は寮の中では掃除やなんやでほとんど自由がなかった。
その寮の中で屋上だけが唯一先輩も足を入れない1年生の自由に使ってよい場所だったのだ。
授業が終わってからから夕食の準備までのほんの数時間を屋上で過ごすのがほとんど唯一気を抜ける時間だった。
(ただ、僕は部活をしていたのでこの時間をあまり堪能はできなかった。今となってはもったいなかった)

屋上はその下にある先輩たちの目の光る窮屈な環境とはまさしく別世界の小さな自由の輝く場所であった。

「屋上に先輩は足を入れない」というルールがどういう形で出来たのかは分からないが、厳しい生活を送る1年生のための場所に屋上が選ばれたのは面白い。

もうひとつはこの前、相方と式場を探していたとき。

あるホテルに説明を聞きに行ったとき(そこのホテルは公共の公園を一時借りて式を行うことの出来るホテルだった。)そこの屋上でも式を行うことが出来るということで、写真を見せてもらったのだがそれが漠然と期待していたイメージにぴったりきたのだ。

その屋上は夏の間はビアガーデンになっていたそうで、特別綺麗な建物でもおしゃれな空間でもない。ただ、桜島へのビューは絶景。
なんてことのない空間なのだが、びびっと来た。
なぜなのだろう。

それまではなんとなく漠然としたイメージのかけらのようなものはあったのだが、なんとなく結婚式場というもの自体になんとなく窮屈さを感じしっくりこないと思っていた。

そもそも結婚式場というもの自体が「機能」と「空間」の癒着した最たるものだ。
最近流行のレストランウェディングという別用途からの「転用」程度ではその関係は切れるものではない。
それに、なんとなく商業主義にのせられているような気がしてシャクでもある。(僕は自分の葬式は商業的な葬祭場ではして欲しくないと思っている。居酒屋で十分。)

それでも、「屋上」の挙式風景の写真を見た瞬間、「機能」や「商業主義」から開放された場所のような気がした。
漠然としたイメージがぱちっとはまった。
恐るべき「屋上」の魔力。

(「公園」でのウエディングでさえも、そういう風に感じなかったのだが、今の公園は都市に飼いならされているからだろうか・・・)

相方も似たように感じていたのにもびっくりなのだが。(繰り返しますが、なんてことのない「普通の屋上」なのだ)

さて、何ゆえ屋上がこれほどまでに別世界たり得るのだろうか。

屋根のスラブは建物と大空を切り分ける。
そして、屋上はどちらかと言えば大空に属する。

それゆえに、屋上はちょっと機能を付け加えたぐらいでは空間が完全に機能化されない、飼いならされない。
どうしても中途半端な感じが残ってしまう。

屋上の下の「せっせと機能している建物に小さく収まった空間」をあざ笑うかのような感じが良いのだ。
だから、都市の中にあればあるほど屋上とその下の空間の対比が生まれ、屋上はより屋上となる。

つまり、建物にも自然にも入れてもらえない「こうもり」のような中途半端な位置付けが屋上を屋上たらしめているのではないだろうか。
これを「計画」によって生み出すのは困難だ。

屋上で式をするということは天候によってはその下の「機能化された空間」に移らざるを得ないというリスクを負うわけだが、管理され尽くせないところも屋上の屋上たるゆえんであるならそれも受け入れねばならない・・・。

って、屋上になんとなく特別なものを感じるのは僕だけだろうか?





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