主客の分離、言語体系の網をこえる。
ちょっと悟ったつもりになってみる。
感じることを邪魔しているいろいろなものを取り払ってありのままに感じられる時間をつくること。
例えばモノそのものと向き合うこと。
オノケンノート – B026 『はじめての禅』
主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。 あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。
禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。
『私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。』
どんどん抽象的になってきますがこれ以上に抽象的になることはないんじゃないでしょうか。(ランダムに記事をよんでも抽象論ばかりというのはこれまでこのブログで抽象的なことしか書いてないってことかも・・・)