B026 『はじめての禅』
確か大学生のころだったと思う。
(狭い意味で)宗教的な人間とはとても思えない父の書斎の本棚を物色しているときにこの本を見つけた。
興味本位で拝借したまま、いまだに返さずに、時々読み返したりなんかしている。
出版当時、著者は筑波大の大乗仏教思想の助教授である。
宗教家と学者の中間のような、程よく情緒的かつ学問的な心地よい文体で読みやすく分かりやすい。
僕は組織や宗教は、深入りすると自己の保守・維持自体が目的となってしまうことが多いような気がして、これらとは少し距離を保っておきたいと思っている。
その中で、「禅」は比較的自由な感じがしてそれほど抵抗感を感じない。
それどころか、魅力的でさえあり時々自分を見つめなおしたくなったときなんかにこの本に戻ってきたりするのである。
さて、なにが魅力的かというとなんとなくぐれた感じでかっこいいのだ。
宗教臭くなくどちらかというと『思想』という感じ。
(すこし偏見を含む言い方ですが「宗教とは」という問はおいておきます。)
この本の章立ても実存、言語、時間、身心、行為、協働、大乗と惹かれるものであり、内容も哲学書よりも感覚的に捉えやすい。
(以下、僕の勝手な解釈)
この本に書かれている禅の思想は、「本来の面目(真実の自己)とは何か」との問いに対して道元の読んだ
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり
という詩に集約される。
主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。
あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。
今思ったのだが、その地平とはもしかしたら僕がポストモダンの先に広がっていることを期待している何か、このブログでも今まで考えてきた何かと重なるのではないか。
禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。
しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。
それにしても、最初のころ(学生のころ)に読んだ本の影響力とはすごいものがある。
なんか、今まで考えてきたことは、最初のころの直感の枠の中を全く出ていないんじゃないような気がしてきた。
手のひらの上を飛び廻るだけの孫悟空の気分。
(引用や感想等まとまりなし)
我々が有ると思うところの自己は、考えられた自己である。見られた自己、知られた自己であって、対象の側に位置する自己である。しかし、自己は元来、主体的な存在であるべきである。その主体そのものは、知られ、考えられた側にはないであろう。
私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。
自由であるには考えることよりそのままを感じることが重要ではないだろうか。
ここで道元は、古仏が「山是山」と言ったのは「山是山」といったのではない、「山是山」と言ったのだ、と示している。結局、山は山ではない、山である、といっていることにもなろうが、否定と肯定が交錯してなお詩的ですらある。
こんな一見非論理的なものいいに奥行きが与えられていて、かつ真実を掴んでいるというあたりが魅力的だ。
その場合、桜に対し桜の語を否定することは、実はその前提の主-客二元の構図をも否定することにつらなり、無意識のうちに培われた自我意識を否定していくことをも含んでいるであろう。・・・つまり、桜は桜でない、と否定するところでは、自己も自己でなくなり、逆にそこに真実の自己が見出されうるのである。
我々は、既成の言語体系のままに事物が有ると固執することが、いかに倒立した見方であるかを深く反省・了解しなければならない。そして存在と自己の真実を見出すためには、言語を否定しつくす地平に一たびは立たなければならないのである。
この絶対矛盾に直面させるやり方は、言語-分別体系の粉砕をねらう禅の常套手段でもある。そのことがついには、真に「道う」体験に導くであろう。
『日日是好日』
人生は、厳しいものである。・・・そのときは、苦しみのたうちまわるしかない。その今を生きるしかない。ただひたすらに今に一如していくところにしか、真実の自己はない。そこを好日というのである。
仏教に於ては、すべての人間の根本は迷にあると考へられて居ると思ふ。迷は罪悪の根源である。而して迷と云ふことは、我々が対象化せられた自己を自己と考へるから起るのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである。『場所的論理と宗教的世界観』西田幾太郎
自己を意識することで怒りや迷いが生まれることは多い。
もう一つ離れてみることでそういった怒りなどを感じずにすむならばそれはすごくハッピーでは。
禅の絶対なるものへの感覚は、極めて独特である。『碧巌禄』第四十五則、「万法帰一」は、そのことを鮮やかに伝えている。
僧、趙州に問う、「万法、一に帰す。一、何の処にか帰する」。
州云く、「我れ青洲に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤」。
絶対とは何かを問われて「布巾を作ったが、七斤の重さがあった」と答える。全くもってファンキーだ。ステキ。
禅は決して一の世界と同一化することを求めているのではない。層氷裏の透明な無と化することを目ざしているのではない。大死一番・絶後蘇息という。絶対の否定から、この現実世界へとよみがえったところに、真実の自己を見出すことを求めているのである。
ゆえに我々に対して現れる仏は、すべて虚妄な幻影にすぎない。対照的に自己を捉えることが迷いの根源であったように、対照的に仏を捉えることはまた、正に迷いの集積である。臨済は「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」といっている。対象の位置におかれた仏は否定されるべきである。その否定する働きの当体にこそ、真の仏が見出されるべきである。・・・このとき、不可得の主体に成りつくし、真実の自己になりきるがゆえに、真に自己に由る、すなわち真に自由となるであろう。
結果、自由を得る。『徹底した否定のあとのつきぬけ・自由』。これは今までさんざん探してきた筋書きである。
なんとなく主客の区別や言葉の縛りを超えた自己をイメージするだけでとても穏やかになれる。それが悟りだとは思わないが、心地よいのだ。
関西人の気質やお笑いと禅をつなげたいなとも思っていましたが、またの機会があれば。
(僕は関西人的気質が世界的に注目され必要となる。と以前から考えている。
近頃はあまりにもフラットな世界が関西人的気質を奪っていかないかと危惧を抱き始めたが)