tweet 10/12-11/22
ここのところ夜にツイートしながら考える癖をつけようとしていて、たまにはそれをストックとしてピックアップしてまとめておこうかと。
基本的にその時その時考えた”つぶやき”なので考えは変わっていくと思われます。
目次
個人事務所の方法論~ギブソン~DIY~モノかヒトか~家具化を考える
2014年10月12日(日) 本買った
台風週末に合わせて3冊購入し、ゆっくり読もうと思っていたけど、気圧変化センサーが反応。頭痛薬も余り聞かず。うぬぬ。
最近、毎日文字なり線なり何かを書きながら思考を積み重ねることを続けねばとの思いがつよくなり、ツイッター熱再燃させたくなってきた。
とりあえず、頭痛中でもなんとか読めそうな坂口さんの新書をペラペラと。
すぐに「ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。」という言葉が頭に浮かぶ。
『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』 https://onoken-architects.com/books/post-3976 からだけど生態学的転回という言葉がぴったり嵌りそうな一冊。
あと2冊は藤村さんの新書。態度のようなものが多少なりとも参考にできればと思っている。いいかげん「オノケンノート」を何らかの実践に具体的に落とし込める道筋を作りたい。
考えて来たことをきちんと構造化して簡潔にまとめ、自分の行動指針のようなものにできればと思っている。その構造化の部分にしっかり時間をつぎ込みたい。
方法論を見つけ出すための方法論、のようなもので参考になるようなものがないだろうか。この場合粘り強く書き出しながら構造を見つけていく以外にないような気もしているけれど。
2014年10月14日(火) 坂口恭平と生態学的転回
坂口さんの新書。共感もしたし面白かったけれども概論的な感じが強かった。もっとなまなましく掴みとれないような感覚を味わいたい気もするので小説をあたってみるか。
生態学的転回という言葉に嵌りそうというのはまさにそうだったと思う。独自の言葉で感覚を現実との関係性の中で描いたのはすばらしいが、逆にもっと論としての鋭さを増したものも読んでみたい気がした。その部分では独立~の方が勢いがあった印象。
でもヒントもあったし、自分の問題としても感じられた。また、知覚や認識がいかに「現実」に規正されているか(バランスを崩しているか)、そこからどう抜け出すのかは時代的な問題でもあるのかもしれない。
ハンナアレント的な公共のイメージも出てきたように思うけれども、この辺は自分の感覚としてしっかり根付いたものにしておきたい気もする。いずれにせよもっと感度を高めたいな。
2014年10月20日(月) 批判的工学主義の建築を読んで
一冊目読了。自分のアプローチできる規模と課題の設定及び設計主体の体制に応じたカスタマイズが必要かと思われる。
現れに対する批判は手法に対する批判とは少し区別する必要があると思っていて、現れは課題設定や主体と設計で如何様にもなると思っている。課題や主体が異なれば当然現れもことなる。
ホンマタカシ的にニューカラー的な建築とブレッソン的な建築があるとすればニューカラー的な振る舞い(手法)はブレッソン的な現れも内包し得る。ブレッソン的な現れが必要であれば課題(変数)に組み込めば振る舞いによる多重性は維持しつつ期待する現れをそれこそ批判的に乗り越えられるのでは。
自らを振り返るといずれの現れも達成できているとは言い難い。ニュアンスによる片鱗のようなものがやっとでどっちつかずな中途半端な感じ。どうにか乗り越えたい。
再引用「ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。
環境の場合も同様に、人間を含めて動物が世界にいかに生きるかを示す概念であり、それゆえ同じ世界に多様な環境が共存しうる」
恐竜や哺乳類でなく昆虫(個人事務所)として生きるとした場合も異なる知覚形式による環境が立ち現れそれに見合った形態(組織形態)と振る舞い(方法論)が生まれるはずである。小型化を逆手にとる。昆虫って寿命短いかな・・・
小型化のメリットはあるはずでデメリットを埋めることもある程度考えられるはず。そういえば子供の頃は昆虫少年だった。
(せめて猿くらいのサイズになりたくないわけでもない。)
とりあえず自分は昆虫なのだ、という目で環境を知覚してみることからはじめて、変態を目指してみる。よりシンプルかつユニークなシステムのものになるのかいなか。
2014年11月01日(土) 風水
プラン上手く解けたと思ったけど風水で玄関の位置を変えて苦戦中。
狭小敷地なので無駄なスペースがほとんど取れず動線の位置変更は痛い。考え方をがらっと考えないといけないんだろうけどむずい。
2014年11月06日(木) あと2あがき
玄関の方位変更に伴うプランニング、何とかまとまってきた。
狭い中で動線のやりくりと狭さをカバーするための抜けの検討をしていくといつもに増して複雑な感じになってきた。
3Dを作りこみながら確認、修正を繰り返したので、このまま頭の中で考えていることと合わせてそのまま図面化出来そう。
何点か課題はあるもののほぼまとまった感じ(課題として見えてるので検討していくうちに解けると思われる)。いつもならこのまま進めてディテールをどこまで詰めるかという流れになる。
でも今回はあと二あがきくらいしたいところ。それなりに詰めたので何をどうあがくか今のところ見えていないけど、しばらく探索モードに集中してみよう。
どう探索するか。どういう視点がありうるか文字にしながら考えてみるべ。(こういう時に対話しながら考える相手がいたら楽なんだろうな・・・)
こういう時にいくつかの視点をカードか何かからランダムに選んで強制的にそれについて考えたら、とかをよく考える。あんまり良い手だとは思わないけど。
そんなことを考えてたらブログのフッターのcのところにランダムボタン仕込んでたの思い出した。現段階の案をこれで出てきた内容に関連させて文字にしながら考えて、その後できれば案に反映させる、ということを試してみようかな。
2014年11月16日(日) DIYのメリット
昨日から二日間、最近恒例になりつつあるお施主さんとの塗装DIY。今日ははじめてお子さんの参加があった。
お施主さんの思い出とか愛着づくりといった意味もあるけれども、その他にもいくつかの効果があると思っている。一つは単純にコスト削減。VEの段階で安易にクロスに逃げたくないときに提案している。
もう一つはお施主さんに建築が単なる商品の寄せ集めではなくて一つ一つ人が作っているものだということを体験的に理解してもらうこと。
住宅なんかは緊張感ばかりではなくある程度の緩さを許容するようなものであっていいと思っているのだけれども、そこにクライアントの理解がなければクレームになりかねないし、その微妙なラインを完全に読み取るのは難しい。
しかし、体験的に理解してもらえればお施主さんの許容の幅を広げることができるしクレームのリスクを低減できる。また、クライアント、職人双方の心理的距離が縮まり、現場に一体感ができる気がする。
ただし、あまりにも素人臭くならないギリギリのラインは守りたいところ。あまりに素人っぽければ、丁寧に仕事をされてる職人さんのやる気をそぎかねないし、いろいろな面で逆効果になりかねない。
今まで使ったのはDIY用でローラー塗りができる珪藻土のホワイト。施工が比較的簡単だし、ムラを無くすように丁寧に作業すればフラットな印象の白い壁や天井になる。左官のようないかにもな手跡ものこらない。
それでいて素人塗りなのでちょっとした液ダレのような凹凸ができるのだけど嫌味でない範囲で緩さが出ることになるし、(自分でやったんだし)これはこれでいいと思えるギリギリのライン。養生の精度によるはみ出しなんかのケアは課題かな。
あと、自分でメンテナンスできるというメリットも。ただし、誰にも提案できるというものではないのでここで見誤ると危険。まー、提案して面白いのでやりましょう、という方は今のところ大丈夫だし、現場の雰囲気も良くなることが多い。
デメリットといえば、忙しい時に重なると自分の首を締めることになるということか・・・・。それでも今のところメリットのほうが勝るかな。
あと、リアルに首が痛くなる・・・
養生テープを剥がした後にはみ出てた部分をいつ削りに行くか。一応、VEで手間代をカットしてもらった以上こちらからやってよというのは筋が通らないので。今度から、あとのケアは金額に入れててもらうかな。
2014年11月18日(火) モノかヒトか 距離感と自律性
モノの側から、と人の側からの話は僕も気になる。おそらく相反する事ではない気がするんだけどうまく言葉にならない。
今計画中の狭小住宅も狭さゆえただの箱では成立せず、ふるまいのようなものを想像しながら密度を上げていきたいと思っている。
そうすると自然と人との距離が近づくことになるけれども、それが人(の欲望)から産まれたものではなくてモノの方から歩み寄った、又は人、モノ双方から歩み寄ったと言うような存在の仕方でないと失敗するように思う。
人との距離は近づけたい、しかし自律性のようなものは維持したい。たぶん、そこで作られ方の見え方のようなものが大事になってくるんじゃないだろうか。
完成形としてブラックボックス的、商品的にものが立ち現れるのではなく、モノからの歩み寄りのプロセスが可視化されてる、というか。それが今回のディテールを考える上でのテーマになるのではというのが今の段階。
それで自律性のようなものがどこまで確保できるかはまだ分からない。
前に書いた自主工事も距離感や関係性をコントロールするための一つの手段と捉えている。(そうでなければやらない)
例えば島田陽さんの家具等の扱いにも同様の意味合いがあるのではと思っているけどそこはまだ研究不足。作品集とか読みたい。
2014年11月20日(木) 五木村のふるまいの表れと魅力
昨日は午後から五木村の集落をまわった。自給自足に近い生活の住まいにはふるまいのようなものであふれていて、ちょっとした無力感を感じるなど。どうすればこういったものを現代の生活の中に取り込むことができるんだろう。
時間もなく貨幣による交換によってこういったものを分断していくことで成立している生活。同じ生活に戻すことは出来ないとしても、現代の生活の中から何を発見していくか。押し付けではうまくいかないしね。
「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」。道具までその場でつくってしまうようなところにやっぱり力を感じるんだけど、道具-家具-建築、このあたりにヒントはないかな。
道具はモノの側なのか、ヒトの側なのか。みたいな。どちらでもあるんだろうけど。ちゃんと読み込めてなかったけど『知の生態学的転回2』の終盤でギブソンの道具論を扱ってた。自律性についてもやもやした感じが残ってるけどそれに対するヒントがありそう。明日新幹線で読み返してみよう。
2014年11月21日(金) 家具化-固有名-社会性
新幹線で道具論関係のところを読み返してみたけれども、まー、あまり良く分からなかった。
無理やり引き寄せると、ギブソンの対象の分類によれば建築は地球から見て付着対象(attached object)で道具は人から見て付着対象(使用時)と遊離対象(detached object/非使用時)を行き来するもの、となる。
家具は地球から見た遊離対象であるとすれば、建築的でありながら道具の側に少し寄った存在と言えるかもしれない。対象としての位相が若干変わる。それで?の域からでまだ出られないけど。
自律性のような流れで言うと、「社会性とは内面化されない他者(固有名を持った存在)との対話の間で生まれるもの( https://onoken-architects.com/books/post-3006 )」だとすれば、建築を対話の対象となる固有名を持った存在にどうすればできるか、というのが課題に設定できそう。
建築を家具化することの意味を考えた時、建築の一部を固有名を与えうる対象として家具(detached object)的に切り離すことは建築に社会性を付与する一つの方法と言えないだろうか。(社会性という言葉の使い方がまだなじまないけど)
ピノコがブラックジャックに切り離されることによって姉の体の奇形としての一部から固有名を持った存在になったように。(?)
おそらく、物理的に切り離して可動にすることが必ずしも必要ではなく、あり方としてそういう風に取り出す、ということが重要なのだろう。それは前に書いた作り方の表れによっても成せるかもしれない。
残された建築はより地形的・自律的なふるまいができるのでは。その地形的建築は家具的なふるまいの拠り所を提供することによって関係を取り結ぶ。みたいな。違ったあり方も当然あるだろうけど一つの指針にはなりそう。
2014年11月22日(土) 方法を見つけたい
毎日ツイートすることで少しずつでも考えを進められそう。ストックとしてたまにブログにまとめてみるべ。
試してみたシートはクライアントとのプロセス共有にはある程度役立った気がするけれども、仕事を進めるためのTODOチェックツール以上にはなっていないかも。
一人で考えるのであれば、図面と3Dを同時に進めて画面上で中を歩き回りながら探索と発見、フィードバックをリアルタイムにがんがん繰り返した方が有効かもしれないし、探索の精度をあげることに注力したほうがいいかも。
その中で必要に応じて方法のようなものが生まれればいいのだけど。(それだと何も前進してないのでは、という罠。だけど、進め方のイメージは前よりもクリアになったかも)