世界を眺め自分の自由を見つける。
自分の中に強さと自由を見つけること。
それを核にして<社会>や<世界>を眺めてみる。
また、<社会>や<世界>から自分の核を眺めてみる。
多分両者はフラットな関係。
全ては強さのために。全てはデザインのために。
■オノケンノート » B043 『ル・コルビュジェの建築-その形態分析』
コルの発明はやっぱりコルの発明であって、自らの匂いを嗅ぎ取らないことには自ら人間味のあるものはつくることはできないと思う。そういう過程を抜き去ってしまっていて、コルを批判は出来ない。
それは、おそらく問いのたて方に問題がある。 「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。 「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。
■オノケンノート » B148 『原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ』
前著は比較的分かりやすく誰にでも”利用”できる内容だったように思うが、今回は打って変わって私的な部分が表面に出てきたように思う。
おそらく青木淳が開いた建築的自由というものは、最後のところでは青木淳のものであって、自分にとっての自由は自分で作り出すほかない。
■オノケンノート » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』
彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。
■オノケンノート » B146 『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』
僕は最終的には<私>に還らざるを得ないと思いますし、『すべてがデザイン』という姿勢が今の社会では生きやすいんじゃないかなと思うのですが、<社会>や<世界>を一度通してから<私>を考えた方が楽だったり『デザイン』しやすかったりすることも多いように思います。