素材に対して誠実である。
視覚だけの表現に安易に流されず、音や匂い、重量感、肌理といった素材のもつほかの要素の大切さを忘れないこと。
しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。
偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。
藤森照信が表面を見ただけで厚みとか重さが分かるわけがない、というようなことを書いてるのをどこかで読んでびっくりした記憶があるけど、やっぱり何かしら感じる能力はあると思う。(藤森さんが言ったもんだからなおさらびっくりしたんだけど。藤森さんならではの視点というか考え方が含まれてる気がするけど僕にはまだ良くわからない。)
素材のあり方によって得られるもの、または、失うものは多いと思う。
オノケンノート – B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』
新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。
単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。 自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。
オノケンノート – B050 『地球生活記-世界ぐるりと家めぐり』
そして、ここには肌理も粒もある。 おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。
しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。
「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。