偽物の氾濫
偽物の氾濫
昔から日本人は石庭を水にみたてたり、何かを抽象化することを得意にしてきた。
しかし、今の文化は表面的な具体性に走り、人を欺いているように感じてしまう。
例えば、私たちの周りには一見木に見えるもので、実は木目調のものが表面にプリントされているだけというものがたくさんある。
しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。
感じるだけで、意識にのぼることはほとんどないかもしれないが、そういった偽者だらけの環境は確実に私たちの世界観や精神状態に影響を与えていると思う。
自然のままの環境を知っている大人は、まだいいかもしれない。
しかし、今のような環境で育つ子供はどうなるのだろう。
デパートで買ってきたカブトムシが死んだのを見て「電池が切れた」という子供がいるように、感じる力が弱くなってはいかないだろうか。
大人になれば「カブトムシが死んだ」と言う「ことば」は頭で理解できるようになるだろうが、「死んだ」と言うことを感じにくくなったりはしないだろうか。
偽物がすべてダメだといっているのではない。
ただ、偽物がまるで本物のように振舞っていることに問題があると思っているdだけだ。
偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。