建築と自由の感覚

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たこはんさんのUSTでちょっと話が出たので。

オノケン【太田則宏建築事務所】 » B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』
を例に出して「建築は制約でしかないけど、だからこその自由に迫れる」と書いたのですが、これはずっと昔から主要な関心でした。それは、自由に対する感覚というか世界・社会との関わり方が建築が人にマッチするかどうかに大きく関係するかもしれないと思っているからです。

近代的な枠組みというか、「はい、これどうぞ」と渡されたもので(本人は選んだつもりでも)満足できる感覚の人は、USTで話しに出たような一般的にイメージされている機能主義的な建築のあり方で全然問題ない、むしろ好ましい場合も多いと思うのですが、これだけ、自由を迫られたり、確たるものがないとか、神が死んだ、とか、個人の枠組みが変化している、と言われるような中では、世界や社会との関わり方に不安を覚える人もいるでしょうし、不自由さを感じる人もいると思います。

そういう人は、もしかしたら機能主義的な枠組みだけで作られた建築は制約だけでしかありえないし、どこにも逃げ場のない不自由なものに感じられるかもしれません。その場合はおそらく別の建築のあり方のようなものがあるはずで、その感覚に共感できるセンスと、その感覚と生活空間をよりフィットするものにするための方法が必要なんだと思います。(だから、多くの建築家と言われる人は単なる間取りではなく、ディテールに神が宿るところまで考えようとするのかもしれません。)

哲学なんかはもしかしたらその時代時代に違和感なく世界や社会と向きあうための方便のようなものなのかもと思ったりしますが、建築も同じようなものだと思うのです。

そう考えると、例えば@otakohanと@rectuswarkyさんの住む家を考えるときは、全然違う感覚が必要なはずで、自分がどこまで相手の感覚にチューニングを合わせられるかが重要だと言えるかもしれません。(そんなにずれてない可能性もあります)

そのために、このブログでもそういう事をテーマにいろいろ考えてきたし、先日の模型展の「棲み家」というテーマも制約の矛先を機能から少しずらして別の自由と向きあうためのものだと言えるかもしれません。

といっても、個人がチューニングできる幅には限界があるので自分の出来る範囲でですが。

USTを聞いてなかった人には良く分からない話かもしれませんでした。すみません。

補足:機能主義的な建築というのは、キッチンで料理して居間でくつろいで、寝室で寝て、トイレで用を足す、機能と空間を1対1で対応させて考えるもの、っていう程度で書いてます。間取りのパズルだけで考えるようなイメージです。





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