B019 『建築的思考のゆくえ』

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内藤 廣
王国社(2004/06)

『建築的思考のゆくえ』というタイトルに気負って読み始めたのだが、思っていたよりずっと読みやすく、すっ、っと入ってくる文章だった。

分かりやすく書いてあるのは、著者が最近大学の土木分野で教え始めているので、建築以外の分野や一般の読者を視野に入れているのと、等身大で思考をする著者の性格からであろう。

本のタイトルも建築的思考がほかの分野へと拡がっていった先の事を意味しているように思う。

まずは、気になった部分を引用してみる。

世の中には「伝わりやすいもの」と「伝わりにくいもの」がある。(中略)日本文化の、とりわけ日本建築の本質は、具合の悪いことにこの「伝わりにくい』ものの中にある。(p.61)

昨日より今日は進歩し、昨日より今日が経済的にも豊かになる、という幻想。際限なく無意識かされるこのプロセスを意識化すること、形にすること、その上で乗り越えること、がデザインに課せられた役割であることを再認識すべきだ。(p.77)

わたしなりの感想では、世の中で語られている職能も資格も教育も、本来的な意味での建築や文化とはなんの関係もないのではないかと思います。(中略)話は逆なのです。今ある現実をどのようにより良いものにできるか、どのようにすれば人間が尊厳をもって生きられる環境を創りだせるか、が唯一無二の問題なのです。(p.88)

建築は孤独だ。建築はその内部環境の性能を追うあまり、外界に対してその外皮を厚くし、何重にも囲いを巡らせてその殻を閉じてきた。(中略)建築の孤独は深まるばかりだ。建築が多くの人の希望となり得ないのは、この「閉じられた箱」を招来している仕組みにある。(p.123,125)

時間を呼び寄せるためには、形態的な斬新さや空間的な面白さを排除することから始めねばならないと考えている。空間的な面白さは饒舌で、時間の微かな囁きをかき消してしまうからだ。(中略)われわれにせいぜいできることは、現実に忠実であること、時間の微かな囁きが、騒がしい意匠や設計者の浅はかな思い入れでかき消されないようにすることだけだ。(p.166)

最後の引用に内藤の建築の本質が出ている。

内藤廣といえば大屋根の一見して単純でざっくりとした建築をイメージするが、内部には独特の時間が流れているような気がする。
実際にその空間を体験していないのが非常に残念なのだが、形態の面白さに頼らず空気感イッポンで勝負、という感じだ。

どの本かは忘れてしまったが、ある建築の本に人間の感じる時間の概念が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」(だったと思う・・・)と変わってきたというようなことが書いてあった。
本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだろう。

そして、そういう時間の流れは内藤の言う「人間が尊厳をもって生きられる環境」に深く関わるだろうし、建築にとっての重要な要素であるだろう。

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。
一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。
たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。
それはまだ、僕の中では可能性でしかないのだが。





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