そこに身を置き関り合いを持つことで初めて立ち現れる建築 B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』

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ホンマ タカシ (著)
平凡社 (2009/05)

図書館で借りてパラパラと読んでいた『時間のデザイン: 16のキーワードで読み解く時間と空間の可視化』にホンマタカシ氏が出ていたのですが、似た内容が別の視点から掘り下げられている本を読んだことがあったのを思い出しました。

●ホンマタカシ(写真家) カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比 何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。 おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。 建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。 建築として際立たせるものと、自己との係わり合いの中にある環境の中に建築を消してしまおうというもの。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

それで原典にあたろうと思い買ったもの。

写真についてはド素人なのですが、ホンマ氏の視点から氏の言葉で簡潔に書かれた写真史がとても分かりやすく、大まかなイメージを掴むのにとても良い本でした。
(時代背景などもっと掘っていけばイメージがクリアになっていろいろな関係性も見えてくるのでしょうが)

アフォーダンスという生態心理学的視覚論の概念に触れてから、ボクには「決定的瞬間」と「ニューカラー」という、写真をめぐる2つの大きな山が見えてきました。(あとがき)

とあるようにブレッソンとニューカラーが写真史の山として描かれているのですが、先に引用したように『建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。』のではないかということをもう少し詰めてみたくなってきました。

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。

設計をしているとついついドラマティックなシーンを作りたくなってしまうのですが、それを抑えて、後者のイメージを持ちながら建築を作る方が、難易度は高まりそうですが密度の高い豊かな空間になるのでは、という期待のようなものもあります。

ここで書くブレッソン的、ニューカラー的というのは『包まれる人』で紹介された事例に通底する下記のような印象・可能性を代表させて使っているものです。

本書の趣旨が関係してもいるだろうが、3人の表現者が環境について語ったことに共通の意識があることは偶然ではないだろう。エピローグで佐々木正人が水泳と自転車の練習を例に出している。 水泳の練習をしている時、自己と水との関係を見出せず両者が分離した状態では意識は自己にばかり向いている。同じように自転車を道具としてしか捉えられずそれを全身で押さえ込もうとしている間は自分の方ばかりに注意を向けている。 それが、ある瞬間環境としての水や自転車に意味や関係を発見するようになりうまくこなせるようになる。 自己と環境の間の断絶を乗り越え関係を見出したときに人は生かされるのである。同じように、建築においても狭い意味での機能主義にとらわれ、自己と対象物にのみ意識が向いてはいないだろうか。 その断絶を乗り越え、関係性を生み出すことに空間の意味があり、人が生かされるのではないだろうか。 そのとき、これらの事例はいろいろなことを示してくれる。人は絶えず「全体」を捉えようとするが、逆説的だが俯瞰的視点からは決してヒトは全体にたどり着けないのではないだろうか。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

また、別の場で議論に出た、
某氏『「ブレッソン的な建築はニューカラー的な建築を導き出すことはできないが、ニューカラー的な建築はブレッソン的な建築を必要性に応じて表出させることができる(理論的には)」と言えると思います。逆に「依頼者の要望に対して、誠実に”ブレッソン的な”ふるまいを見せる建築を提供することによって”ニューカラー的”な効能(?)を持った建築に変換されて行く可能性がある」みたいなこともイメージしました。ただ後者は”ニューカラー的”な建築をイメージできる人しか取り扱えないんじゃないかと思います。』『ニューカラー的な建築はオブジェクト指向のプログラミングと構造がよく似ている。ニューカラー的建築家が”設計”するメインフレームに対して、対象や環境がすでに固有で持っているファンクションやビヘイビアなどのブレッソン的な要素に成りうる素材をメインフレームに接続する感じ。』
というのもヒントになりそうな気がしています。

ただ、ここでブレッソン的/ニューカラー的という視点を導入する際、例えば建築に関して、
・人間・知覚・・・ブレッソン的/ニューカラー的に知覚する。
・設計・技術・・・プロセスとしてブレッソン的/ニューカラー的に設計する。建設する。
・建築・環境・・・ブレッソン的/ニューカラー的な建築(を含む環境)・空間をつくる。
などのどの部分に対して導入するのかというのを整理しないと混乱しそうな気がしました。(上の分類はとりあえずのものでもっと良い分類があれば書き換えます)

例えば「ニュカラー的な空間を現出させたい」のだとすると、そのための手法としてニューカラー的な方法論が適しているのかそうでないのか。
もしくは、今の社会において「ニューカラー的な方法論が適している」のだとして、その結果ニューカラー的な建築が生まれるのかそうでないのか。
といった事を整理する必要があるのかもしれません。(もしくは統合できるのか)

このブレッソン的/ニューカラー的という見方はこのブログでも出てくる、ふるまい・オートポイエーシス・ポストモダン・身体・関係性というキーワードやドゥルーズ・リノベーション的・社会性・アノニマス・超線形設計プロセス論・・・(あとなんだろう)といったことと接続できそうな気がしますし、そのあたりに自分の関心があることがだいぶ分かってきたので、一度自分の言葉として整理して、具体的な設計に活かせるものとしてまとめたいと思っています。(いや、これずっと前から言ってるのですが・・・)

この本と同時に『 リアル・アノニマスデザイン』と『 知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』の2冊を買ったのですが、前者は先に書いたことの補完として、後者はガッツリ理論書として具体的に整理をするために役に立つのでは、と期待しているのですがいかに。

(『知の生態学的転回』はかなり面白そう。でも3部作なんだよなー。1と3はいつ買える/読めるだろうか・・・)





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