B150 『1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築』
藤村 龍至 (著), TEAM ROUNDABOUT (著)
エクスナレッジ (2009/2/21)
久しぶりにこの手の本が読めました。
■1995年以後次世代建築家の語る現代の都市と建築 |雑誌・書籍|X-Knowledge(エクスナレッジ)
1971年以降生まれの若手建築家、研究者ら32組へのインタビュー集。「1995年」を、都市のインフラの構成が変化し、情報化と郊外化が加速する2000年代の一連の変化の起点として位置付けた。そうした時期に建築を学び始めた建築家たちにインタビュー(議論の場を提供)し、これからの都市と建築のあり方を探る。本書は、次世代の建築論の基点となることを宣言する。
登場する建築家等の名前・誕生年・当人もしくは勤め先へのリンクは以下(メモ及びリンク集の意味合いも含めて)
藤本壮介(1971)Link、平田晃久(1971)Link、長坂常(1971)Link、森田一弥(1971)Link、白井宏昌(1971)、倉方俊輔(1971)Link、満田衛資(1972)Link、中山英之(1972)Link、中村竜治(1972)Link、吉村靖孝(1972)Link、吉村英孝(1975)Link、重松象平(1973)Link、トラフ(1973,74)Link、中村拓志(1974)Link、石上純也(1974)Link、谷尻誠(1974)Link、大野博史(1974)Link、TNA(1974,75)Link、dot architects(1974,77,74)Link、松川昌平(1974)Link、北川啓介(1974)Link、平塚桂(1974)Link、田中浩也(1975)Link、永山祐子(1975)Link、藤原徹平(1975)Link、勝矢武之(1976)Link、柄沢祐輔(1976)Link、中央アーキ(1978,76,77)Link、長谷川豪(1977)Link、鈴木悠子(1979)Link、南後由和(1979)Link、ドミニク・チェン(1981)Link、大西麻貴+百田有希(1983,82)Link
僕はぴったり同世代なんですが、やっぱりこういうのを読むと多少の焦りは感じますし、建築系ラジオをちらほら聴いたのもあってか、議論しあうことの必要性をすごく感じました。
社会性を前面に出す人が多かった印象がありますが、そんな中あえて社会性と距離を置く人もいて、考えさせられました。
建築はどうあがいても社会との関係性を持たざるを得ないので、立ち位置として社会とどの程度の距離感を持つかはその人の感覚しだいと言う気はします。
どのような距離感であれ、できたもの(またはそのプロセス)によって社会に何らかのよい影響があればよいというのは声の大小はあるにせよおそらく共通の思いでしょう。
また、採られる戦略や方法論もおそらくごく個人的な問題意識が根元にあって、個人的な欲求から建築をつくるにあたってその問題意識を作動させ続けるために戦略や方法論を必要としているのだと思います。
感じた事をうまく書けないまま仮にここまで書いてみたのですが少しイメージが浮かびました。
それは、まだ中途半端にしか理解できていませんがオートポイエーシスにイメージを重ねられないかと言うこと。
オートポイエーシス単体としての生命における一般的な「たましい」のイメージに個々の「問題意識」を重ねてみる。
様々な人・戦略・方法論・建築・その他を構成素に共通の「問題意識」を作動し続けながら次なる構成素を生み出し続ける、そのようなオートポイエーシス単体。
「問題意識」の連鎖の断絶が生命における死に該当する。
「問題意識」は「社会性」と置き換えてもよい気がします。
例えばある話題に関するコミュニケーションの連鎖も(僕の勘違いでなければ)オートポイエーシスとみなせるようだからそんなにおかしなイメージではないと思います。
実は著者の唱える「批判的工学主義」をきちんと読んだことがないのですが、この本を読んで、著者にはそんなイメージ、ある問題意識(よりもう少し大きなくくり、社会性のようなものかもしれませんが)が作動し続けて大きな運動体のようなものになるイメージがあるのかもしれない、と思いました。
翻って、自分の問題として考えた場合、自分にどのような問題意識があり、どのような戦略・方法論があるのか、どのようにすればそれを作動し続けさせることのできる場を生み出せるのか、等を考えなければいけません。
例えば、鹿児島にどのような問題・可能性・場があるのか。お手本となる人・活動も多いのでじっくり考えてみようかと思います。