ジム カムバック B322『生きのびるための事務』(坂口恭平)

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坂口恭平 (著), 道草晴子 (イラスト)
マガジンハウス (2024/5/16)

ジム カムバック

「ジム 突然ごめん、今まで悪かった。やっぱりたまには俺と会ってくれないか?」
「やぁノリ。久しぶり。そろそろ来る頃かと思っていましたよ。もちろん私が力になれるなら喜んで。」
「ありがとう。そう言ってくれると思ったよ。早速だけど、少し話をしよう。」
「そうしましょう。ノリのことは遠くから見守っていましたよ。」
「ノリという呼び方も懐かしいなぁ。じゃあ、近況から。」
・・・・

先日、坂口恭平さんの「生きのびるための事務」の広告が目に入った。
そういえば、自分の中にもジムがいたな、と思い出した。
ジムとは久しく合っていなかったけれども、急に懐かしくなって本を買って読んでみた。

やっぱりジム、お前が必要かもしれない。

 

ジム

 

僕とジムとの出会いは大学1年生の時。大阪に引っ越してすぐの頃だった。

大阪の大学に入学が決まった僕は、まず、住むためのアパートを探した。
親からは、面倒を見るのは高校まで。それ以降は自力で生活するようにと言われていた僕は、奨学金とバイトだけで生活していく必要があった。不動産屋に行き、大学の近くで一番安いところという条件を出したので、アパートは一瞬で決まった。
大阪の大学近くの「暁荘」という名のアパート。4畳半風呂なし、トイレ共同、月1万2千円。高校時代が寮での共同生活だったこともあり、それで十分。むしろ自由な生活の始まりを感じて僕はワクワクした。

暁荘での生活が始まって1ヶ月が経過した頃、突然知らない男が鍵を開けて部屋に入ってきた。
「だっ、誰?」
大学近くの安アパートで、既に溜まり場になっていたので、人がふらっと入ってくるのは珍しくはなかった。だけど、鍵を開けて当然のように入ってくるその男に僕は一瞬恐怖を覚えた。
「あれっ、ヤスはいないのですか・・・・
そういえば、ヤスは引っ越すっていっていましたね。あなたがここの次の住人っていうわけですか。鍵を変えないなんて不要人ですが、まー、この安アパートじゃ盗るようなものもないでしょうね。」
その躊躇のない飄々とした雰囲気に触れ、若い僕の恐怖心はすぐに好奇心に変わった。

その男はジムという名前で、普段は関東で生活をしている。時々大阪に来る時に前の住人であるヤスのところに泊まることにしていたらしい。
この安アパートの住民はジムを必要とする人が多かったので、長く大阪の拠点になっていたそうだ。ジムにとってヤスが3人目の住人らしい。つまり僕が4人目というわけだ。
僕も例に洩れず、ジムの事務を必要とする生活が始まっていたため、僕らはすぐに意気投合し、その後僕が大阪を離れてからも、時々訪ねてくれる仲になった。

といっても、坂口さんの時ほど密に過ごしたわけではなく、時々友人として話をするくらいだった。ジムはおそらく相手によって接し方を変えていたんだと思う。(僕は、ジムのことを師匠のように思っていたけれども、それを口に出すことはしなかった。)

そんなこんなで、僕はジムとの会話で時々出てくる格言のような言葉を自分なりに(時には間違った)解釈をしながら過ごしていった。

 

 

大学以後

 

僕は坂口さんと同じく大学で建築を学んでいて、大学の3回生になる頃には、よくある建築を夢見る少年になっていた。そして、当時活気のなかった大学の建築学科に対して、いつも不満を漏らしているような学生だった。
だけど、就職か他の大学の大学院への進学か迷っていた僕は、ある事件をきっかけに建築に幻滅することになる。大人がつくるものはろくなものがないじゃないか。こんなものをつくり続けるなんて一生かけてやる意味があるのだろうか。むしろ社会にとって悪なんじゃないか。
そんな思いを抱き始めた僕は、建築をやめ親がやっているような農業でもやったほうがいいんじゃないか、と真剣に考えるようになっていた。
結局親に説得され、もう少し建築と向き合ってみることにしたけれども、その時には一般的な就職の募集も大学院の受験時期も終わっていた。

「ジム、僕はどうしたらいいんだろうね。」
「建築をやることに決めたんじゃないのですか。」
「そうなんだけど、なんだか分からなくなっちゃって・・・周りはみんな進路が決まってるし焦ってるのかな。」
「ノリらしくないですね。周りと比べても何の意味もないですよ。それに焦りなんて、事務的に間違っていることを考えている証拠ですよ。まずは、現状を整理しましょう。何をやりたいか分からなくなっているということですね。」
「いや、本当は焦っても意味がないことは分かってるんだ。ただ、何が分からなくなったのかがよく分からないんだよ。建築をやることは決めた。これに今は迷いはないし、なんだかやる気も湧いている。」
「それならぜんぜんいいじゃないですか。今、建築をやるために続けていることがありますね。まず、それは続けましょう。その上で何が分からないか分からない、ということですが、そういうこともあるでしょう。それが今の現実です。それなら今何をやるべきだと思いますか?」
「うーん、とりあえず環境を変えてみることかな。」
「いいですね。では環境を変えましょう。」
「でも、何をどう変えるべきかが分かんないんだよなぁ・・・」
「別に何だっていいんですよ。環境を変えることが目的ですから。そうですねぇ、まずはここを出ていくこと。できれば大阪以外がいいですね。」
「友達もたくさんできたから、大阪から離れるのはちょっと寂しいな。」
「だからいいんじゃないですか。どこか行きたいところはないんですか。」
「うーん、僕はどこでも住めば都派だから、これといって。
あっ、そう言えば新建築に東京の建築系の専門学校の広告が載っていたな。確か、大学卒業後のコースがあったような。」
「では、そこにしましょう。東京を一度体験してみるのもいいんじゃないですか。多くの情報は東京に集まりますし、建築系のイベントも多いですよ。」
「そんなに簡単に決めていいのかなぁ」
「いいんですよ。事務は簡単に決めるためにあるのです。東京に住む口実ができて、建築の勉強もできる。それに見てみると1年間のみのカリキュラムじゃないですか。環境を変えるには十分すぎる条件ですよ。」
「うーん、他に何かあるわけじゃないし、そうするか。じゃー、申込期限も近いし来週下見に行ってみるよ。」

ということで、大阪の大学を卒業した後は東京の専門学校に行くことになった。
もちろん不動産屋での第一声は、「新宿に通うことが出来て一番安いところ」。

こうして始まった東京での専門学校生活。
この時は、建築関係の難解な文章が読めないことが嫌だったので、年間100冊以上読んで1冊毎に必ず何かしら文章として書き出してみることを目標にした。(この習慣はペースは落ちても今も続いている。)

そして、専門学校の講師をしていた方に模型の腕を見込まれ、そこで働くことになった。
給料は格安で極貧生活は続くのだけれども、他にバイトをする時間がとれなかったので、定期を買うお金もなかった。それでやむを得ず千歳船橋から六本木まで片道1時間を自転車通勤することになる。

この頃には同期の友達がそれなりのところに就職してそれなりに良い生活をしている。全く羨ましくなかったかというと嘘になるけれども、建築に少しずつ近づいているという確かな手応えがあったので苦ではなかった。

その事務所も、途中、結核を患って3ヶ月ほど離脱した。
「ジム、今日病院に行ったら結核だと言われたよ。”派手にやらかしてるね。早速明日から入院してくれ”ということになった。どうしよう。」
「どうしよう、と言う割にはそれほど落胆はしてなさそうですね。」
「うん。昔は命に関わる病気だったけど、今は大抵薬で治るらしいからね。それでも、薬が効いて検査で退院しても大丈夫と分かるまでに最低3ヶ月かかるみたいなんだ。先生(もともとは学校の講師として出会ったため、その後も先生と読んでいた)に迷惑かけちゃうな。」
「なっちゃったものはしょうがないですね。ノリはまだ若いから3ヶ月で退院できるとして、その間の過ごし方を考えましょう。」
「それなんだけど、この機会にやりたいことがいっぱいあるんだよ。今年は一級建築士の試験を受けようと思ってたところだし、つくりたいものもいっぱいある。」
「いいですね。それではその準備をしましょう」
それで、翌日、僕はコルビュジェの作品集と模型の材料を大量に持って虎ノ門にある隔離病棟に入院した。
幸い3ヶ月で退院できたのだけど、その間、友人に建築士試験の参考書と問題集を買ってきてもらい、みっちり勉強しつつ、好きだったコルビュジェの住宅の模型を病棟の団らん室でもくもくとつくった。(おかげでその年、建築士の試験は一発合格できた。たまたま同じ病棟に入院していた藤森照信氏のおじいさんという人とも仲良くなった。)

入院前、入所したころ7万円だった給料が倍くらいに増えたところだった。けれども、僕の入院騒ぎで新しいスタッフを入れざるを得なくなったため、退院後にはもとの金額に戻ってしまった。生活はあいかわらず厳しかったけれども、この事務所で僕は多くのことを学ぶことが出来た。

そんな事務所生活を送って数年経った頃、鹿児島の妹が結婚して新しく家を建てることになった。設計は僕に頼んでくれるそうだ。

「ジム、妹が家を建てることになって設計をさせてくれるかもしれない。」
「いいじゃないですか。いよいよ実作ができますね。」
「でも、東京で働きながらでちゃんとできるかな。ちゃんと現場で監理しないと責任が持てないよ。」
「それなら、鹿児島に引っ越せばいいんじゃないですか。」
「簡単にいうね。ここの事務所にもやっと慣れてきたところだし、先生にも恩があるよ。」
「恩は大事にしないといけないですよ。ですが、事務的にはどうするのがいいとお思いです?」
「それはもちろん、鹿児島に行くことだと思う。何の実作もない若造を世間はなかなか相手にはしてくれない。最初の実作をどう実現するかが一番難しいところだからね。これはまたとないチャンスだ。」
「それでは決まりですね。先生にはちゃんと説明しましょう。大丈夫、あなたの先生だから分かってくれますよ。」
「よし、そうするか。
だけど俺、貯金はまったくないんだよな。鹿児島に引っ越して生活できるだろうか。」
「大丈夫ですよ。そこは事務的に考えればどうとでもなります。大事なのは、その行動が未来の自分にちゃんとつながっているかどうかですよ。」
「うん分かった。明日、先生に話をしてみるよ。」

こうして、東京の事務所を辞め、今度は鹿児島に引っ越すことになった。
行き当たりばったりの生き方だけど、「自分の設計で食べていく」という未来に向けた、その時々の事務的な判断あってのことなのだ。ジム、本当にありがとう。

さて、鹿児島に引っ越した僕は、妹の家の現場に通うことになる。と言っても、貯金があるわけじゃないので、鹿児島市の新婚の妹のアパートに転がり込んで、妹の旦那さんのお父さんから借りた軽トラで霧島市の現場まで1時間ほどかけて通った。今思うと割とめちゃくちゃだ。こんな僕を受け入れてくれた妹にも感謝しかない。
妹の結婚式では、ご祝儀を出すお金がなくて、設計料割引券で勘弁してもらったのだけど、値引いた設計料では、早々に生活が難しくなりそうだった。現場を減らしてバイトを入れないとな。
そう考えていた頃、見かねた大工さんが、「日当払うから現場を手伝え」と言ってくれた。
それで現場の監理者から大工見習いにジョブチェンジすることになる。これはこれでいろいろ大変だったのだけれど、なんとか妹の家は完成した。

その後、バイトをしたり、ちょっとした設計の手伝いをしながら食いつないでいたけれどもちゃんとした設計の仕事の依頼はなかなか来なかった。鹿児島での経験と実績、人のつながりが必要だと痛感した僕は、ハローワークに通い、地元の設計事務所にしばらく勤務することにした。

そんなときに出会ったのが妻のフアンだ。そして、僕はジムとだんだん疎遠になっていった。

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とまぁ、年配者の昔語りのような話になっちゃいましたが、気分的にはまったく逆です。過去のことはこの場に捨てて未来に目を向けよう。そんな気持ちにさせてくれる本でした。

若い頃は、ジムが話すような話が好きで、自分の中にも父親や尊敬する人をモデルとしたようなジムがいたものですが、いつのまにかいなくなっていました。
おそらく、ある程度経験を積むことで直感にそのまま頼るようになってしまったことと、家族ができたことで自分の中のジムでは対応できなくなったからだと思います。

でも、今だからこそジムが必要なんだと本書を読んで思い直した次第。

子どもたちにも読ませよう。





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