触覚と倫理、周辺視とリアリティ B269『建築と触覚: 空間と五感をめぐる哲学』(ユハニ・パッラスマー)
ユハニ・パッラスマー (著), 百合田 香織 (翻訳)
草思社 (2022/12/13)
初版が1996年の著書の邦訳。
パッラスマーはa+u別冊で、学生の頃貪り読んだ「日本建築における光と影(1995.6)」とともに大きな影響の受けた「知覚の問題 建築の現象学(1994.7)」の著者の一人でもある。(めちゃ懐かしい)
視覚偏重の弊害とそれに対する触覚的要素の重要性はいまさら言うべくもないが、出版当時と比べても視覚の偏重っぷりは加速しているし、だからこそ視覚以外の体験的要素の重要性は増している。
また、それらは求められるようになってきてもいるだろう。
触覚と倫理
では、なぜ今本書か。
それに特別の理由がある訳ではないが、5感を持ってして世界と関わる経験を取り戻してみたい、というのが最近のテーマであるし、別に書いたようにそこには次世代に対する倫理的な責任があると思う。
そう、触覚を含め、体験に関してどう向き合うかははもはや倫理的な命題なのではないか。
最近そのように考え始めている。
それで、改めて、「つくることと」と「つかうこと」、「建てること」と「住まうこと」について改めて関連書籍を読んでみたいと思っているところである。(引用文では馴染みがあるけれども、引用元の原著をちゃんと読んだことがなかったので)
周辺視覚とリアリティ
また、本書の中で特に気になったのは、周辺視覚とリアリティの部分。
私はまた、私たちの住まう空間における内部性の経験だけでなく、この世界の「生きられた経験(体験)」における周辺的で焦点の絞られていない視覚の役割にも興味をかき立てられてきた。(中略)しかし、生きられた経験の本質は、意図していない触覚的なイメージと焦点の絞られていない周辺視覚にある。焦点の絞られた視覚は私たちを世界と対峙させるが、周辺視は生き生きとした世界で私たちを包み込む。(中略)しかし、建築のリアリティが根本的に依存しているのはどうやら周辺視のほうであって、その周辺視が建築のリアリティという主題を空間に包み込んでいるように思える。(p.21)
周辺視は私たちを空間に結びつけるが、焦点の絞られた視覚は私たちを空間の外へと押し出して単なる傍観者にしてしまうのだ。(p.22)
ここでも何度か書いている隈研吾のオノマトペの感覚は、触覚性と周辺視に関わっているのではないか、という気がしたし、リアリティに関する一つの手がかりを得られたような気がする。