里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)

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鷲谷 いづみ (著)
岩波書店 (2011/6/22)

結城 正美 (編集), 黒田 智 (編集)
勉誠出版 (2017/6/30)

今、ぷち2拠点居住を実現すべく、山里の土地を探しているところだけどなかなか進展がない状況。
そんな中、自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう、というのがいまいち言葉にできなくて、里山という言葉にヒントが無いだろうかと読んでみた。

生態学的な里山

最初に読んだのが、鷲谷いづみ著の『さとやま――生物多様性と生態系模様』。
単純に生態系としての里山とはどういうものだろうという関心から読んでみた。

本書では里山におけるヒトと自然の関係性の歴史などに触れられるが、より大きな視点として、ヒトの活動も生態系における「撹乱」の一つと見ている。
河川の氾濫原では、しばしば起こる氾濫が、競争力の大きい種の独占状態を一時的に破壊し、撹乱を好機とする生物種を栄えさせ、かえって生物種の多様性を高める。
同様に、さとやまと呼ばれるような場所では、ヒトの生活が「撹乱」のひとつとして作用し、生物多様性を支えてきた。

しかし、「撹乱」が単なる破壊となったり、その作用自体を失うことで、生物多様性が急速に失われつつある。
本書の後半では、「人間中心世(今で言う人新世)」における問題や、再生への取り組みなどが紹介されている。

人文学的な里山

次に読んでみたのが結城 正美 , 黒田 智他編著の『里山という物語: 環境人文学の対話』。
『都市で進化する生物たち』の訳者あとがきで日本の「(里山)に閉じこもる閉鎖性に危機感を深めて」いるとの記述があり、里山という言葉に対する批判的な視点のものも読んでみたいと手にとってみたものである。

本書では、生態学的な実態としての里山とは別に、イメージあるいは幻想としての里山がどのように形成され、どのような問題を孕んでいるのかということが語られる。

里山を「二次的自然」として考える時、人の手が入ることで管理された自然、という意味で捉えることが一般的かと思うが、ハルオ・シラネ氏は、里山を言葉によって文化的に構築されたものだと捉え、そういう視点から里山を「二次的自然」としているそうだ。本書では後者のような視点から里山を考えていく。

もともと、里山という言葉は生態学などの分野で、純粋にある状態を示すための言葉として稀に使われたもので、特定の価値観や情景を含んだものではなかったようだが、1992年に写真家の今森光彦が雑誌『マザー・ネイチャーズ』に里山にフォーカスしたフォトエッセイの連載を開始する。
その時に連載開始に合わせて作った定義が「里山とは日本古来の農業環境を中心とする生物と人とが共存する場所を言う」というものだったそうだが、今にしてみると、日本の原風景としての里山はこの時発明されたのかもしれない。
(その後1993年(1995年?)に「里山物語」として発表されたが、本書のタイトル「里山という物語」はこれを意識したものである。)
このフォトエッセイの反響はとても大きかったそうだが、その後、里山という語がひとり歩きを始め、幾度かの里山ブームを経て、今ではある程度共通のイメージや価値観、政治的メッセージなどが染み付いた言葉になっている。

その時、例えば、

・里山の英訳がSatoyama landscapeであるように、里山のビジュアル、景観のイメージのみが理想像として独り歩きしていて、そこで暮らす人々の実際の生活の大変さや困難さが置き去りにされていないか。
・里山は環境問題に対して、理想形のように語られることがあるが、実際に日本の中でそのような理想的な状態は空間的にも時間的にも稀だったのではないか。むしろ、その時その時生きていくための行為に過ぎず、人の同様の営みが、歴史的には破壊的な開発行為としてあらわれたことの方が多かったのではないか。
・日本人の原風景・ふるさと的なイメージも教育現場における唱歌などを通じてつくられたものではないか。

などと言った問題が提起されるが、実態と幻想が区別されないまま使われることによって、目の前の現実を現実のまま捉える目を曇らせることが一番の問題であろう。

里山なき生態系

ここで頭をよぎったのはやはりモートンである。

「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

里山という言葉に絡みついている様々なイメージは、目の前の現実との間に距離を生み出し、固定化してしまう。

そうであるなら、里山という概念を手放し、目の前の現実を受け止め、赦し、溝を認めた上で向き合ってみることが必要かもしれない。
そうやって初めて、今現在、目の前の環境における望ましい生態系のあり方が見えてくるかもしれないし、そこに新たな里山が発見される可能性も生まれるように思う。

さて、「自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう」というはじめの問いに対しては何か言えるだろうか。
周囲の環境も含め多様な生態系に触れられる場所というのは一つあるかもしれない。(そういう意味では多様な林地、草地、湿地の環境が複雑に入り交じってモザイク状になっている里山というのは当てはまりそうだけれども、広々とした現代的な水田が拡がっているだけの場所は違うかもしれない。)
また、そういう多様性も含めた生態系サービスの享受できる環境、というのもあるかもしれないが、享受するというよりは、そこに自分がどのように関与可能か、という可能性の幅に魅力を感じている。
しかし、その可能性は、その場所その場所に向き合い、想像力を働かせることによってしか判断できないのだろう。

都市部の与えられた土地に建築を計画するのとは異なる難しさ、面白さがあるな。





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