二-五 移動―私のいる空間が私である
私のいる空間が私である
人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。
この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。
例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になるし、高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じるかもしれない。快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げるし、さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながってると感じられる。鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれる。
また、視線の先に階段があるとそれば、その階段を直接登れないとしてもも、階段は登ることを想像させその上の部分にまで私の領域を広げる。(これを場所のチラリズムと呼んでいた。)。
こんな風に、移動によって、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は大きく広がるが、そこにはその領域を広げるような出会いの積み重ねがある。
そして、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は社会的に共有できる。同じ景色を見ている、同じ場所に住んでいるというように、「私たちのいる空間が私たちである」と感じるような領域へと拡張できるだろう。この「私」から「私たち」への拡張は、その場所やへの愛着や他の「私たち」への親しみといった社会的な感情の礎になるように思う。
この「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域は、おそらく探索的な移動の中で何とどれだけ出会えるかと関連があるだろうし、その領域をかたちづくる出会いの多くは建築に関わるものだと思う。
人は建築で出会い、「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域をかたちづくっていく。