B025 『建築意匠講義』

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香山 寿夫
東京大学出版会(1996/11)

僕は「空間」についての捉え方の多くをこの本からスタートしたように思う。
建築を学び始めの人にはお勧めで、この本のおかげで、最初は掴み所がなく曖昧過ぎた建築・空間という概念を、グッと身近に引き寄せることが出来た。

その時にまとめたメモからいくつか抜き出してみる。

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

私という不確かな存在を定着させるためには、まず、中心が指示され確定されなければならない。同時に輪郭を限定することが必要であるが、囲いは内と外を切断するだけでなくつなぐものでなければならない。

自己のアイデンティティは自分の中心、すなわち固定点を持ち、自分の領域すなわち囲いをもたなければ決して確立できない。

建築家は空間がどちらに向かってどのように広がりたいかを正しく把握することが必要である。

まず、個々の部屋がどうなりたがっているかを考えそれを一つにするために呼び集める。全体を統一するために部分を押し込めてはならない。

中心が確定できない場合でも、中心が多数ある部屋の共同体として考え抜かねばならない。

建築家は光を用いて形をつくる。

・照らす光光と影の対比
・満たす光空間を光のマッスとする
・「照らす光」と「満たす光」は連続的かつ共存しうるものである。

空間における光の意味、あり方を考えていくと、それは必然的に建築の諸要素、すなわち壁、屋根、天井、床の意味を捉え直すことになります。
それが伝統を捉え直すということである。
ここに建築家の最も大きな喜びの一つがある。

入口は常に特別な場所であり、喜びや悲しみ、期待や不安といった様々な意味が集中している。

都市は記憶の積層であり、その根底には大地がある。建築において持続性、連続性が重要であるのはこの由である。

建築は住む人の感情と精神、さらには人間の共同の価値を表現するものである。そして、それは私たちの存在のかけがえのない表象である。

「囲いモテイフ」「支えモティフ」は互いに対立し支配権を得ようと闘っている。それぞれの欲求を汲み取りこの対立を統合させなければならない。

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

自己と空間を重ね合わせることでずっとイメージがしやすくなる。

ただし、この本でもカーンの本のときのような重さを感じてしまった。

「○○しなければなりません」「○○必要があります」というような断定的な書き方になんとなく違和感を覚えてしまうのだ。

例えば

・・・これらを、中心がないのだ、中心を考えることが間違っているのだ、と考えないようにしてください。そう安直に考えると、建築を空間としてとらえることができなくなり、単なる部屋のつながりをダイアグラムのようにつくることになります。あくまで、中心が多数あり、移動するような部屋の共同体として考え抜かねばなりません。

と言われると、最近はむしろ、中心や空間をわざと感じさせない、それこそダイアグラムのような建物が脚光をあび、なんとなくそれに共感する部分を持ってしまう自分と折り合いがつかなくなってしまうのだ。

なぜ、断定的な物言いが出来るのか。
それがうらやましくもあり不思議なのである。

あえて今、それに折り合いをつける仮説をつくるとすれば、
「中心を感じさせず、ダイヤグラムそのままに見える建築も、実際は作者の力量によってそうは感じさせないようにさりげなく空間を生み出しているのではないか。そうとは知らず安易に真似をするのは危険だ」
ということになる。それが正確かどうかは分からないが、この先に共通点が見つかりそうな気もしないでもない。

またしても、この本を最初に読んで数年後、妹島和世の作品集を見て衝撃を受けてから、何度となく繰り返してきた様々な問いが浮かんできてしまった。

それは、「空間とは」「普遍とは」「宗教とは」「人間とは」といった容易に答えのない問いに結びついてしまう。

結局は先に書いた

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

ということなのかもしれない。

そこで「道徳的」「確信」「信念」と言った言葉に対してまでも注意深くなるとどうも身動きがとれなくなる。

一度、もっと身近な視点に戻してみないと。

うーむ。また、混乱した文章になったけれども、混乱は僕だけのものだろうか。
みんな何らかの確信を持っているのだろうか。
気になる。





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