B002 『住み家殺人事件 建築論ノート』
著者は東京芸大建築学科卒の小説家・評論家。これも図書館でなんとなく借りた本。『建築雑誌』に連載していたものに加筆して単行本化したもの。
文体には理論派建築家のような鋭さはがないが(本のタイトルの印象のように)著者の思いの伝わる文章で、よく読んで見るとなかなか鋭い考察が見られる。
あとがきに『・・・たとえその地図が厳しい現実の前では無力な夢で終わろうとも彼らに手渡したいと考えた。本書はときに迂回し、ときに遊び、私なりの思考をたどった一枚の地図である。』(彼らとは直接的には芸大の教え子)とあるように、建築と社会の関わり方に対する『地図』を描こうとする試みである。
テーマの射程が大きく、かつ、もともとが連載ということもあり、内容は多肢にわたるが、一貫しているのはなにか「欠如している」、失われつつあるという警告である。
そこでキーとなるのがハンナ・アレントのいう「私的」「公的」という概念である。
『完全に私的な生活を送るということは、何よりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」deprivedということを意味する。』「人間の条件」ハンナ・アレント1994
『内奥の生活のもっとも大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらがいわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化され非個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在にすぎない。』(同上)
『世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人々の真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真中にあることを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人々を結びつけると同時に分離させている。』 (同上)
アレントは古代ギリシャの概念を用いて、「私的」より「公的」であることを重要とし、「私的」を何かが「奪われた」状態とする。アレントについてはこちらを参考に。
『・・・あなたはそれほどおかしな社会であれば、もはや自分の生活こそなにより大事にすべきだと考えるだろう。だれもが社会のなかで生活していることぐらいはわかっている、しかし、だからこそプライベートな生活を重視すべきと思うだろう。』
しかし、それでよいのか?はっきりとしたものではないのだが、漠然とひっかかる何かがある。
それに対し、『欠如』『奪われている』という概念は何かの取っ掛かりになるような気がする。
東浩紀がラカン派の「想像界」「象徴界」「現実界」の3つの概念を引き合いに出して、象徴界が弱体化し『「世界の終わり」について思考しているが、「世界」については思考していない』状況を説明していたが、それに通じる部分があるように思う。(それについては別の回に。「郵便的不安たち」東浩紀著(朝日新聞社)1999.08)
建築はアレントの言う「テーブル」すなわち「世界」となれるのか。
われわれは何を『奪われている』のだろうか。
気がつけば、すぐに「考える」ことすらも奪われてしまう。私自身も時に「考える」ことの必要性と無力さのハザマを揺れ動いてしまう。
今度、アレントの本を探してみよう。