戦い、あるいは精算という名のフェティシズム B205『オーテマティック 大寺聡作品集』(大寺 聡)

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大寺聡 (著, イラスト), 井原慶一郎 (監修)
フィルムアート社 (2018/2/22)

土曜日に霧島アートの森で開催されている大寺さんの個展で購入。(個展は4/15まで。本書は展覧会の公式ガイドブックも兼ねているそうです。)
大寺聡展 Ohtematic 2018(オーテマティック ニイゼロイチハチ) | 霧島アートの森

大寺さんの展覧会に行ったのは2006年3月の「クロニクル展」が最初だったと思いますが、あれからもう12年。早いものです。

魅力的な線と面及びそれらの関係

僕にとっての大寺さんは、魅力的な線と面を操る憧れの存在
その線と面から生まれるキャラクターはどれも、今にも動き出しそうに活き活きとしていて、それらの関係による一枚の絵の世界は躍動感に溢れています。
建築もこんな風にそれぞれが活き活きとし、それらが集まった街が躍動感に溢れていればいいのに、と思わされます。

なぜ、こんなに活き活きと感じるのだろうか、どうしたら建築をもっと活き活きとさせられるのだろうか。いつも考えさせられるのですが、その中心には確かな技術とある種のフェテシズムがあるように思います。
大寺さんの個展では、そのエッセンスのほんの一部でも自分の中に感覚として残ってくれないかなー、という期待と、何かを胸に抱きながら技術を積み重ねればにここまでたどり着くことができる、という希望を胸に作品を眺めることが多いです。

虫自慢

今回の個展のテーマは「21世紀型の小さなくらし」で、これは大寺さんが自らの生活スタイルを通じて表現され続けていることでもありますが、今回は特に虫にスポットが当たっているようでした。
ohtematic.com : 虫自慢が多極分散型社会を作る

そう言えば、僕も小学生の頃は虫キチで、将来は昆虫ハウスを建てて虫と一緒に暮らしたい、というのがその頃の夢でした。
その中でも特に好きだったのが水生昆虫で、水の中に僕たちの窺い知れない独特の世界がある、というのがたまらなく魅力的でした。
水槽に置いたレンガに、狙い通りタイコウチが産卵し、そこからミニタイコウチがうじゃうじゃと出てきた瞬間が、僕の昆虫生活のハイライトだったように思います。(そう言えば、鹿児島ではタイコウチやミズカマキリを一度も見ていないような・・・)
そんな昆虫たちのつくる多様な世界をいくつも切り取って配置し、いつでも眺めることができるとしたらどんなにわくわくするだろう。そんな風に思っていた記憶があります。

子どものころに好きだった、昆虫・折り紙・工作・プログラミング・サッカーのうち、昆虫だけが今の自分に受け継がれていないのが不思議だったのですが、もしかしたら「昆虫ハウス」「小さな世界観を手にしたい」という感覚が少しねじれた形で今の仕事に受け継がれているのかも知れません。

戦い、あるいは精算という名のフェティシズム

先程、ある種のフェテシズムと書きましたが、個展や本書で改めて大寺さんの歴史やライフスタイル、主張や表現に触れて、宮崎で観た「人生フルーツ」のことを思い出しました。

onokennote: あっ、嫁さんの希望で「人生フルーツ」観に行ったんだった [2017/04/05]


onokennote: 自分自身はここで建築を続けるという選択肢と、屋久島で農業をするという選択肢があって、今は建築を続けるという選択をしてる。修一さんは、建築からリタイアして余生的に好きなことしてるんだろうな、と漠然と思っていた[2017/04/05]


onokennote: でも、多分違った。この暮らしは、理想が経済性という言葉に一旦敗退する、という経験を、その後一生かけて清算するための戦いだったんだと思う。そう思うと最後は出来過ぎなくらいの最後だったように思う。 [2017/04/05]


onokennote: 何かを清算するために一生をかけられる、というのは、善悪や良否とは関係なく一つの幸せなんだろうな、と思う。 [2017/04/05]


onokennote: 戦いという言い方はしっくりこないな。もっと自然なものだったように思うけれども、そんなに軽いものでもなかったように思う。
でも、あの生き方も修一さんのものであって、僕のものではないのは確か。 [2017/04/05]


僕には、津端さんの選んだライフスタイルは癒やしという言葉よりも戦いという言葉の方に近いように感じました。静かで穏やか、そして豊かであるという戦い。
同様に「何かの瞬間に出会ってしまった感情を清算するために一生をかけている」というような印象を、魅力的な人の多く(例えば、甑のケンタさんにも感じますし、大寺さんにも感じるように思います。

もしかしたら”出会ってしまった”ものはネガティブなものかも知れません。
でも、その出会い自体はダイヤの原石ののようなもので、かつ出会ったその人だけのものだと思います。それをしぶとくしぶとく磨き続けることができたとすれば、その人の魅力や、共有可能な価値を生み出すことに繋がるように思いますし、そうでないとしても、磨き続けること自体が尊く、世界に多様性を与えるものだと思います。

僕もたぶん、幸運にも(もしくは不幸にも)”出会ってしまった”一人なのだと思いますが、それをどう磨き続ければよいのか。
また、出会ってしまった大人として、次の世代の誰かが出会う機会をどうやれば残せるのか
大寺さんの作品はそんなことを問いかけてくるように思います。

案外、子供の頃夢見た昆虫ハウスにその答えがあったりするかもしれませんね・・・。
 
 
(※ 展覧会のガイドペーパー?には『虫に敬意を評し、虫からの情報をより多く得ることが、田舎暮らしの価値を高めると大寺は考えています。』とあります。その情報を解読してつくられるのが「昆虫ハウス」なのかもしれません。また、大寺さんにはこんな昆虫ハウスがあるよと教えて頂きました。)





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