その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』

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小嶋 一浩 (著)
TOTO出版 (2013/11/20)

onokennote:隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。
例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。
隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。
四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。
実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。
また、これらの場がどのような居心地と関連しているか。例えば住宅などですべての場所で常に探索モードが活性化しているのはどうなのか。
国分の家では内部は活性化レベルをある程度抑え、外に向かっての探索モードをどうやってコントロールするかを考えていた気がする。
今やってる住宅も同じようなテーマが合いそうなので、探索モードの場、レイアウトのようなものをちょっと意識してみよう。風水の気の流れとみたいなのも似たようなことなのかなー。 [10/20]


他の本を読んでいて考えたことと、『小さな矢印の群れ』というタイトルがリンクしたので興味が出て買ったもの。

アフォーダンス的な事は前回のようなプロセスに関わるレベルと、今回考えたように知覚のあり方そのものに関わるレベルとでイメージを育てるのに有用だと思います。

著者が書いているように建築の最小目標をモノ(物質)の方に置くのではなく『<小さな矢印>が、自在に流れる場』の獲得、もしくはどのような「空気」の変化を生み出すか、に置いた場合、ツイートしたような「探索モードの場」のようなものも「小さな矢印の群れ」の一種足りえるのではないでしょうか。

僕が学生の頃に著者の<黒の空間>と<白の空間>という考え方に出会った気がしますが、この本の終盤で黒と白にはっきりと分けられない部分を<グレー>ではなく<白の濃淡>という呼び方をしています。それは、「空気」が流動性をもった活き活きとしたアクティビティを内包したものであってほしいという気持ちの現れなのかもしれません。
同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。 それはもしかしたら建築の普遍的なテーマなのかもしれないが、その問いは、どちらか?といものよりは、どう共存させるか?ということなのかもしれない。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』)

ここに来て、学生の頃から悶々と考えている<収束>と<発散>の問題に何らかの道筋が与えられそうな気がしています。





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