可能性の表現 B306『人類堆肥化計画』(東 千茅)
東 千茅 (著)
創元社 (2020/10/27)
別の本で紹介されていて、気になったので読んでみた。
里山における腐敗とその先の堆肥化。
堆肥はもちろん比喩であるが、そうでないとも言える。
嫌われ者の小動物や微生物が、動物や植物の死体を腐敗させ、堆肥化することで新たな生へと繋いでいく。
堆肥とは生と死が入り乱れる場所だ。
著者は山尾三省が、里山の生活を寡欲・清貧な「小さな幸福」と表現することを糾弾する。
(35年ほど前、私の家族が屋久島へ移住した頃、何度も山尾三省の名前を聞いた。父は氏と多少の交流があったようだ)
著者によると里山は寡欲・清貧などではなく、欲と悪徳、生と死にまみれ、それだからこそ大きな悦び・大きな幸福があるという。
それを偽悪的な表現で暴き出す。
以前書いたかもしれないが、数年前、環境について学んでみようと考えたとき、環境を学ぶということは結果的に、それまで建築について考えてきたことに蓋をし、寡欲・清貧な道に切り替える決断を迫られることになるかもしれない、と思っていた。
しかし、実際に学び、多少の実践を交えながら考えていった結果は全く逆で、環境について考えるということは、それまで考えてきたことの延長線上にあることが分かった。それは、それまで考えてもなかなか埋めることの出来なかったパーツであり、建築を大きな悦びにつなげる可能性を持つものだったのだ。
その意味で、著者の書いていることは細部も含め、おおいに共感し、参考にもなった。
おそらく、表現すべきは悦びの方なのだ。
ここで、この見えている可能性をどう表現するかはとても大きな問題だと思う。
寡欲・清貧な小さな幸せを求める、というのも良い。
しかし、実際にそのような生活をしてきた人たちは、おそらくそんなことは考えずに当たり前に生活しているだけだろう。そこには、豊かで優しいだけでない暴力的な自然もあるし、それらも含めて当たり前である。
ここの表現を誤れば、多くの人との間に壁を立て距離を生むことになるか、現実と乖離した幻想を植え付けることになりかねない。(この辺の違和感については、「いいわねー」に対する違和感として、以前少しだけ書いた。)
著者の偽悪的な表現は魅力的で、感染力がある。どちらかというと、ひねくれた方である自分としても、清貧なものいいは好きになれない。おそらく著者も、悦びを最大限表現するためには、それに応じた悪徳を表現しなければむず痒くてやってられないのだろう。
しかし、自分は著者のような表現を嫌味なくできそうにないし、著者ほど若さや勢いを持ち合わせてはいない。
それに、これまでの経験上、こういった感染力は、瞬発力はあるが、感染した人がすぐに忘れてしまう割合も高いように思う。(それでも、いくばくかの人の実になればそれでいいのだろうけれども。)
個人的には、当たり前のこととして、淡々と、自ら悦びを享受しつつ表現できるようになれればいいな、と思っているし、最終的にはそれを建築で表現することが必要だろう。
とはいえ、当たり前に淡々としていては、伝わるのに時間がかかり誰にも気づかれないまま終わってしまうのでは、という不安や葛藤もある。(当然そうなれば建築を仕事として続けることが困難になる。)
そうならないように、できることを考えやっていかなければ。さてさて。