B008 『妹島和世読本 -1998』
妹島 和世、二川 幸夫 他
エーディーエー・エディタ・トーキョー(1998/04)
この本は、僕が大学を卒業し、上京して再度学ぼうとしていたころに購入した。
今考えると、俺も結構ミーハーだなぁ。と思うが、とにかく妹島和世には相当な衝撃を受けたのである。
当時はその衝撃を自分の中でどう解釈してよいか、相当に悩んだ。
恥を惜しむがその当時のメモには
「このごろ、妹島和世の建築にも魅力を感じ始めている。それは、さまざまなものからの開放に対する興味でもある。僕の心は絶えず、内側への収束と外側への発散との間を揺れ動いている。98.5.17」
と書いている。
他にも気になる建築家はいたのだが、当時は両端としての安藤忠雄と妹島和世との建築の間で揺れ動き、自分の考えがどちらに近いかを早急にきめねば前に進めない。という焦りを感じていた。
このころ、僕の中で発見したキーワードは「収束」と「発散」である。
たとえば、安藤忠雄の空間の質は人を精神の内へ内へと志向させる「収束」であり、妹島和世の空間の質は人を精神の外側へと志向させる「発散」ではないかと考えていた。
そして、内へ向かおうが、外へ向かおうが、その究極の行き着く先は同じで、そこにはある種の『開放』と精神的な『自由』があるのではないか。
なんだ。結局は同じではないか。そんなに今悩むことないや。というのが、その当時のとりあえずの結論である。
この、「収束」「発散」「開放」というのは割合気に入っていて、架空の事務所名にも”release”という単語を入れている。(※記事作成時の事務所名)
今考えると、妹島和世の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。
もちろん、妹島和世の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。