社会的構造が絶望と希望を生む B287『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』(山岸 俊男)

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山岸 俊男 (著)
PHP研究所 (2000/6/21)

以前から社会の空気のようなものがどのように生まれ、どのように影響を与えるかに興味があり、その関連で著者の本を読んでみようと思い買ったもの。
比較的新しいもので、自分の関心に近そうなものを探したところ本書に行き着いたのだけども、それでも2000年の発行なので20年以上も前のものである。
(最近の本で良いものがあれば紹介して欲しい)

社会的ジレンマとは

社会的ジレンマとは次のような構造を持つ問題のことである。

①一人一人の人間が、協力行動か非協力行動のどちらかを取ります。
②そして、一人一人の人間にとっては、協力行動よりも非協力行動を取る方が、望ましい結果を得ることができます。
③しかし、全員が自分にとって個人的に有利な非協力行動を取ると、全員が協力行動をとった場合よりも、誰にとっても望ましくない結果が生まれてしまいます。逆に言えば、全員が自分個人にとっては不利な協力行動を取れば、全員が協力行動を取っている場合よりも、誰にとっても望ましい結果が生まれます。(p.17)

要するに、こうすれば皆が良い結果を得られると分かっていても、自分だけがその行動をとっただけでは自分が損をみるのでやれない、という問題で、現在の環境問題が典型的な例だろう。

本書での一番の結論は、

しかし、次のことだけはわかっています。それは、私たちは私たちが作り出している社会をコントロールするために十分なかしこさを、まだ持ち合わせていないということです。(p.10)

という言葉に集約されるかも知れない。

わかっちゃいるけどやめられない。それは個人の意志だけの問題ではなく、社会的な構造によるものであり、それをコントロールできるほど人間はかしこくない。
まずは、その認識を持つことが必要なのかもしれない。

何が可能か

それでは、自分たちには何が可能だろうか。人類がかしこさを持ち合わせていないことを嘆くしかないのだろうか。

例えば、政府などによる、アメとムチの監視と統制は、一定の効果が出る可能性はあるが、二次的ジレンマの発生や内発的動機づけの破壊など、さまざまな問題も多いし、それに期待するだけではいけないことも実感として感じている。

そんな中で、各個人が「個人としてできること」のイメージを持つことは可能なのだろうか。
もし、そのイメージが持てないならば、そのことが諦めを生み、人々に非協力行動をとらせてしまうだろう。
社会的ジレンマの構造を考えると、「個人としてできること」のイメージの発明はとても重要なことのように思える。

このことについて少し考えてみる。

このイメージを考える上でのヒントは社会的ジレンマが社会的な構造をもっていることそのものの中にありはしないだろうか。

例えば本書では、限界質量という概念が紹介されている。
ある集団の中には、様々な度合いで協力的な人、非協力的な人が分布している。
ある人は、10%の人が協力しているなら自分も協力するという人で、ある人は90%の人が協力していないと自分も協力しない。そういう度合いの分布があるとすると、これらの人の行動が積分のように連鎖してある割合に収束すると考えられる。
この考えの面白いところは、同じ分布の集団が、初期値によってことなる地点に収束する場合がある、ということだ。
あるケースでは、行動の連鎖の結果、協力者の割合の初期値がある値(例えば40%の人が協力している状態。ここを限界質量と呼ぶそう)より少ない場合は10%に収束し、多い場合は87%で収束するという。
(▲本書p.199 例えば50%の協力者からスタートすると、協力者は58%に増え、と連鎖し87%に収束する)
この社会的な構造を人々の行動が連鎖する複雑系のような関数としてイメージしてみる。
ある関数では、初期値によって結果が大きく変わる。あるいは、個々の人々の特性(関数の勾配のようなものをイメージしてみる)がほんの僅かに変わるだけで、結果が大きく変わることもある。
それは、僅かな人の行動が変わるだけで結果を大きく変える可能性があること、あるいは、ほんの僅か他の人々の特性に影響を与えることができれば局面が大きく変わる可能性があることを示しているといえる。

多くの人が持っている、自分だけが変わっても何も変わらない、というのはおそらくこの関数を足し算のようにイメージしている。
しかし、この関数を複雑系のようにある小さな値の変化が結果を大きく変える可能性のあるものと捉えられれば、自分の変化が結果に揺らぎを与えるかもしれない、というイメージに少しだけ寄せられるかもしれない。

むろん、一人がイメージを変えたところであまり結果は変わらないかもしれないが、多くの人がこのイメージを持つことができれば、つまり、社会的関数の入れ子のように(例えばある環境問題の関数の中の勾配を決める関数として、この「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと考える人の割合」の関数として考える)捉えて、関数間の連鎖が起きることを考えれば結果が変わることがあるかもしれない。(ちょっと何を書いているか分からなくなってきた)

要するに、ある社会的ジレンマを持つ問題の全体を個人が0から1に変えることは難しいけれども、入れ子のような関数を考えて、より小さな関数を少しだけ変えるということはできるのではないか、ということだ。
社会的ジレンマを持つ問題に対して、自分の不利になる行動をいきなり変えることは難しいかもしれないけれども、まずは「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと捉えてみる」だけならそれほど不利益を被ることもなく変化の敷居は低くなる。
自分の行動が人の行動をいきなり変えることはないかもしれないけれども、その人の行動の指針をほんの少し狂わすことはできるかもしれない。そういうイメージを持つことができれば、自分の行動を正当化できる人も増えるのではないだろうか。(そして、これは入れ子状にさらに小さな関数へと微分していくことができるだろう)

うーん、何が言いたいかますます混乱してきたけれども、大きな変化をいきなり見ずに、小さな変化を可能性としてみることができれば、堂々とやりたいことをやれるのではないだろうか。明るく堂々としているだけでも小さな変化へのきっかけにはなる。

これは、自分への言い訳探しでもあり、重い問題に明るさを見つけるための試論でもある。

この小さな変化を可能性としてみる、というのは次の読書記録への導入として続きは後日考えたい。





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