世界にとどまる境界線に再び向き合う B271『体の知性を取り戻す』(尹 雄大)
尹 雄大 (著)
講談社 (2014/9/18)
サクッと読めたのでサクッと。
著者は柔道・空手・キックボクシングなどを経験した後、何かの違和感をもとに甲野善紀に師事し、韓氏意拳に入門した。その経験をもとに身体の知性とは何かを語る。
だが、ふと思うと、幼子は大人がおののく世界で無邪気に遊ぶ。遊ぶとは、この世界と全身で戯れつつ関係を結ぶということだ。(p.169)
幼い頃は誰もが好奇心のまま、身体の赴くままに世界と戯れる。それが、小学校に上がる頃から大人になるに連れ、頭で考え、他人の視線を気にするようになり、ルールから逸脱しない正しいことをせよ、と刷り込まれる。そして、自らの身体を通して世界と会話する方法を忘れていく。
大きく言うと、このことがいろいろな問題の根っこにあるのでは、というのが最近のテーマである。
いや、大きく言わずとも、ごく個人の問題としてもう少し自分の感性を取り戻したい、というのがある。
冒頭で、子供の頃に「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」に対して違和感を感じたことが語られるが、ちょうどこの部分をパラパラと読んだ次の日にとあるワークショップがあった。
私は関心があって参加させて頂いただけの立場にすぎないけれども、このワークショップを「子どもたちが身体を使って世界との関係を切り結ぶ技術を学ぶきっかけ」と(個人的に)解釈していた。
そのワークショップの冒頭で、付き添いの大人たちが子どもたちを学年順に整列させたのが少し気になったのだけど、これは本書によると、「命令するものに注目せよ」というメッセージであり、身体に緊張を与え、受け身の姿勢を強要したことになる。それはこのワークショップの主旨に対して全く反対の効果を与えたことになる。
とは言っても、相手に対し失礼のないようにしよう、と言うのも分かるし、私も同じようなことをした可能性はおおいにある。
この時考えないといけないのは、この「相手に対し失礼のないようにしよう」というのも結局は「よく考えてからものを言いなさい」と同じメンタリティであって、子どもたちの体験そのものよりも、相手の視線、もしくは自分の体裁を気にしただけではないか、ということであって、子どもたち以前に自分たちの問題であるということだ。
また、このワークショップ中でも、あの子にはもっと身体を自由に試行錯誤させるような話しかけ方をすればよかったな、というような反省点が無数にあったのだが、比較的うまく道具を扱えている子はどの子もリラックスして自分なりの身体の使い方を模索できてるように感じた。
この本を読んで、また、この体験を通じて感じたのは、自分も「小さく前にならえ」や「よく考えてからものを言いなさい」の呪縛から全く逃れられていない、ということであり、間違ってもいいので、肩の力を抜いて、もっと身体と世界の声に耳を傾けないといけないな、ということであった。(染み付いてしまっているので、簡単ではないけれども)
■オノケン│太田則宏建築事務所 » B011 『自分の頭と身体で考える』
僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。 それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。
若い頃には少しこだわっていたこの境界線、歳をとり家族が増えるにつれ、それを言い訳に見ないふりをしてきたこの境界線に、再び向き合ってみようと思う。他の誰にでもなく自分の身体に聞きながら。