第1回かごしまデザインミーティング

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鹿児島建築の言論空間欲しい言い出しっぺの一人としてブログに書かないわけにはいかないな、ということで。
かなり長くなったし文体もめちゃくちゃですが宜しければどーぞ。

イベントのまとめ

とりあえずイベント内容の(外部サービスまかせの)まとめ。
(1)鹿児島大学建築学科M2のミソノ氏の発言からツイッターでイベントが発生し広がっていく行く様子をまとめました。
参加者がどんどん増えていったり、偶然のタイミングからアトリエ天工人との相互ustが実現するところは非常にスリリングです。
■Togetter – まとめ「鹿児島デザインミーティングvol.1 まとめ #KDMT」

(2)イベントの参加者と概要・レポートは以下。レポートの方にミソノ氏の問題提起の部分が紹介されています。
【だいやめ (だれやめ) 】: 5/23 第1回かごしまデザインミーティング!【改訂版】
【だいやめ (だれやめ) 】: 第1回KDMTのレポート。

(3)当日のustream

(4)相互ustが実現したアトリエ天工人の山下さんのustream

貼りつけただけですが、まとめは以上。

ニホンノハジッコ建築論

短時間できちんとした枠組みをつくっていると思ってなかったのでちょっとびっくりしました。

▲導入部ミソノ氏のブログより画像をとってSlideShareにより作成

このテーマについてはミソノ氏とも何度かつぶやきあってたので(なんか誤解を受けそうな表現w)いちいちよく分かります。
ハジッコがポジティブマイノリィーだということも良く分かります。多分”ニホンノ”ハジッコ、つまり地理的な条件がそうだというのもポジティブに捉えましょうというニュアンスなのではないでしょうか。むしろ、中央-地方の対立軸をあえて相対化するためのハジッコだと思います。

ではなぜ鹿児島で今「ハジッコ建築論」が必要なのか。集まることの意義は何か。

実際にバリバリ建築を生み出している人ほど「そんなに暑苦しく考えなくなくっても」という感じなのかなと思ったのですが、まずは僕の個人的な問題としてどういうことなんだろうか。

ひとつは、宇都さんのシメの言葉にもあったように、個々の設計活動の中で使えるデザインコードのようなものが欲しいということ。

同じデザインコードを使う必要があるとは全く思っていないけれども、人の作品をみたり対話などを通じてヒントをもらうこともあるだろうし、デザインコードのそのまた根拠になっているような考え方っていうのはきっと共有出来るんだと思う。

カゴシマの近現代建築史を浮かび上がらせることがそのままデザインのもとに繋がっていく。

これにはおそらく長いスパンでの蓄積があった方が効果は大きいでしょうし、蓄積はどこかで別の価値に変わるかも知れません。

また、単純に僕はカゴシマで設計をやっている人が何を考えて設計しているかすごく知りたいし、もっとオープンに外に出して欲しいと思っています。

次にカゴシマという社会(これは日本でも地球でも何でもいいんだけど)で設計活動をしていく中で社会とどうやって関われるかということ。

単純に社会に関わりたいというのでもいいし、
studio-L blog: 6/19の「いま、建築に何が可能か」
で投げかけられているように、いやでも死活問題として社会がある。
また、地方都市としての問題も現実としてそこにある。

社会の中で自分がどうやってやっていくかというのもあるし、自分が活動をしていくステージそのものをどうしていきたいのか、というのもある。

自分の中で考えるには限界があるし、そういう時代でもない。他の人が何を感じどう考えているのかも知りたい。社会に対してアプローチするには集まることで効果があがるかもしれない。(物理的に集まらなくても、認識や情報として集まるというような集まり方もあると思う)

並列な情報の時代に「直列でつなぎたい」というのはすごいインパクトがあって、「とにかくスゴそうだ」というパワーを感じたんだけれども、考えてるうちにそんな直列つなぎのアイデアも出てくるかもしれない。

ツイッターをやりだして特に感じるし、天工人の山下さんの発言に少し関係があるかも知れませんが、集まることそのものが凄い勢いで変化しているし、今までイメージできなかった可能性がひろがっている気がします。

皆が必ずしも”活動”をする必要はないと思うのですが、どういうテーマが設定可能でどんな可能性があるのか、ということをまずは知りたいのです。そのためには集まることやカゴシマを軸にしてみる意義があるのかなと思います。

また、この流れであわよくば(公的機関が発注すると言う狭義での)公共建築物についても話しが聞ければいいな、というのがありました。今の鹿児島では公共建築物の設計をしようと思えば、ほとんどの場合は一定のレールに乗っていないと権利がありません。

それはいろいろな意味で”ルール”ですからそのルールに基づいて権利を取得しないのが悪いということもあるし、ルールによって担保されている部分もかなりあります。

しかし、鹿児島でも多くの優秀な設計者がそのレールに乗れない、または乗らないという判断をしている事実は単純に勿体無いという気持ちがあります。

僕もそのレールに乗るという選択肢はあったのですが、開業時の判断では”乗らない”を判断しました。
この辺についても他の方が乗ってるのか、乗らないのか、乗れないのか、興味がないのか、その辺から聞いてみたい気がします。

この部分にアプローチをしようと思えばおそらく個々の力では難しいし、単純に集団の力をと言うのであれば利権団体と変わらず古いやり方を繰り返すだけの気がします。
対立軸を生むようなやり方もしっくりこないし、可能性がもしあるとすればどこにあるんだろうかというのは良く見えませんがこれもひょっこりアイデアが浮かぶやもしれません。

ただ、今から(狭義の)公共建築物うんぬんとこだわっても仕方ないんじゃないかと言う気もします。
公共建築物の担っている機能のうち多くのものはもしかしたら、公的機関を主体とせずともその機能を代替したり補完するものが新しい集まり方の可能性の先に生まれてくるかもしれません。
感覚的なものでしかないですが、もしかしたらマルヤガーデンズはその先駆けになるかも知れませんし、経済状況や情報分野のあり方の変化の速度を考えるとそれが当たり前になるかもしれませんし、そちらにアプローチする方が可能性が大きいかも知れません。

そういう動きによって公共というものの空気が変わって公的機関が変わるかもしれません。

天工人山下さんのustから

東京なんかのメジャーであったところが勝つって言うのは前世紀の話で歴史や内容を持っているところが残る・大切のいうのはむしろ、今回のテーマや活動する動機の核心の部分であると思います。

それが今回集まってくださった方で共有されていたかどうかは分かりませんが、それをまずは共有してみてその先を考えてみましょうというのが第1回目の目的だったと言えるかも知れません。

「クロスカルチャー」「関係をつくったなかで自立した関係の両者が融合していくコラボレートではなくて、その次に新しい次元のものをつくり得るというのがクロスカルチャーで、そういう点では東京も鹿児島も関係ない」
「今までの既存のシンポジウム・展覧会じゃない方が良くて、専門領域だけじゃなくて一般の人を巻き込んだ方がいい。」「リアルとインタラクティブ」「鹿児島が中心となって発信する」

キーワードとしてあげていただいた「クロスカルチャー」「リアルとインタラクティブ」

うまく消化ができていないのですが新しい集まり方の可能性のようなものを感じました。
自立した個々よりも関係性そのものの動きに重きをおくとすればオートポイエーシスが頭に浮かぶのですが(オートポイエーシスもう少し勉強せねば)、これは藤村さんの本を読んだ時に感じたことと似ています。
オノケンノート » B150 『1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築』

実は著者の唱える「批判的工学主義」をきちんと読んだことがないのですが、この本を読んで、著者にはそんなイメージ、ある問題意識(よりもう少し大きなくくり、社会性のようなものかもしれませんが)が作動し続けて大きな運動体のようなものになるイメージがあるのかもしれない、と思いました。

そう考えると”集まることの意義”については、さっき書いたような個別の動機だけではなく、関係性そのもの、集まり方そのものに焦点をあてることも必要かもしれません。

最後に

ということで今回の動きに対する僕個人の動機をひとことで言うと「可能性を開きたい」ということになるような気がします。

まー、まだ1回目なので今後どういう展開になるか。その先の話は楽しみに取っておきましょう。
テーマさえ発見し続けられればぜったい面白くなると思いますし、面白くなって関係性の動きのようなものが出てくればテーマも勝手に決まっていくんじゃないでしょうか。





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