B031 『沢田マンション物語』
古庄 弘枝 (2002/08) 情報センター出版局 |
前々から読みたいと思っていたところ本屋で見つけて即購入。
マンションを二人の力だけで建てた沢田嘉農・裕江さん夫婦の物語。
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まさに『想像を絶する』。
実は『二人だけの力』というのは半信半疑だったのだが、まさかここまですごい夫婦とは想像もつかなかった。
冗談抜きで『命がけ』なのだ。
本当にすごい人がいるもんだ。
このような建物、このような人物がこの日本にいると思うだけで嬉しくなるし勇気も湧いてくる。
この夫婦は多くのことを問いかけてくる。
考えるということ。行動するということ。人と関わるということ。つくるということ。住むということ。自由ということ。生きるということ。
そういうことの原点を問いかけてくる。
それらはすべて今の世では私達の手元から奪われつつあるものだ。
そして、彼らの存在はその状況に対してカウンターを浴びせるように輝いている。
おそらく、僕の旅の答えの多くは彼らが示してくれている気がする。
遠回りになってしまうかもしれないが僕なりに考え抜いて、彼らのようにシンプルな哲学をみつけて船を漕ぎ出したい。
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「わしはカネには全く興味はない。人間として生まれた以上、どれだけのことが出来るのか試してみたい。」
「自分たちが暮らしていけるだけの収入があれば、必要以上のお金をとることはない」
「お金言うものには全くこだわらん。カネ、カネじゃったら心が汚くなるじゃろ。お金を思わん方が一番幸せじゃ。」
こういう言葉をはけるのは、親の財産だとか、もってるものをもってるからだと疑いたくなるが、全く違った。
独り立ちを決心してから、ホームレスのような生活を経験し苦労に苦労を重ね、ゼロから積み上げた上での言葉である。
頭が下がる。
「本はしょせん、他人が考えたものよ。わしは自分の頭で考える」
この嘉農さんの言葉をはじめて聞いたときの衝撃は今も忘れられない。私たちは、ふだん新聞を読み、テレビを見、本を読んでと、さまざまな情報を流し込んでいるが、どれだけ血肉化できているだろうか。それを見透かして「自分の貴重な人生の時間を他人の考えを聞くだけで費やして、無駄に消費している」と宣告されている気がした。
これはよく分かる。前にで書いたように昔は自分で考えることを第一にしていた。
ただ、僕はしばらくは読書でいろいろなものに触れる期間にすると決めた。しばらくは読書を優先しよう。
それは子どもたちへもおよんだ。漫画を読んでいると、「人が描いたもんを読む暇があれば、自分が漫画を描く人になれ」、ドラマを見ていれば「人が作ったものを見るより、自分がドラマを作る人になれ」と、徹底的に「自分が何かをやる」ことを重視した。
これも嘉農さんだからこそ言えたことだ。
それにしても、彼らの子供達は苦労があっても幸せだろう。
自分の親が今の世で手に入りがたいものを示してくれているのだから。
僕も父の背中から多くのものを教えてもらった。
今度は僕が背中を見せる番である。
嘉農さん・裕江さんの存在は、「専門性とは何か」を私達につきつけてくる。・・・すべてを専門家の手にゆだねることで、私たちは「自分で何かをする」ことを手放し続けてきた。そのおかげで便利になり、効率的になったと信じて疑わなかったが、もしかしたら一番大事なものを手放してしまったのかもしれない
同感である。
僕も出来るなら何でも自分でやりたいと思うほうだ。(髪の毛も7年間ほどほとんど自分で切ってたりする。出来・不出来は別にして。)
それは、きっと何かを手放してしまうことを恐れているのだ。
一度手放したものはなかなか元には戻らない。
「困ったとき、いい争いになったとき、人の心は直せなくても、自分の心は直せる。
これは嘉農さんのお父さんの教えだそうだが、こういう言葉をきちんと心において置けるから自分を貫けるのだろう。
確認申請という制度は、もちろん必要があって生まれたのだろうが、それが「画一的」「専門家任せ」「お金次第」という、これまでの建物のあり方と全く無関係とは思えない
今回の事件でおそらく確認の制度は厳しくなるだろう。
それは一方で安全を(というよりは国の責任逃れを)保障するが、確実に画一化へと向かう。そして、沢田マンションのようなものが出来る隙間はほとんどなくなってしまうだろう。
実際、建築基準法には納得いかない点も多く、現時点でもかなりの部分を基準法に誘導されてしまう。
性善説が全く無効になってしまったのでそれは避けられない流れだろうが・・・。