学習と教育について
引き続き『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』の続き。
学習について
先日、協力案件の現調で木曽まで行ってきた際、帰りに大阪時代に大変お世話になった方に会いに行った。その後、その方の息子で当時家庭教師で数学を教えていた人と飲みに行った。
彼は今、塾を経営していて、自ら数学も教えているのだが、当時の話や今、彼がやっていることなどを聞いてまさしくこの本で学習について書かれていることと重なったので書いておきたい。
その彼については以前、ここでも取り上げたことがある。
■鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B149 『大久保進一朗の 数学II・B計算トレーニング (数学が面白いほどわかるシリーズ)』
その彼ですが、家庭教師のバイトをたくさんした中で、唯一『こいつはもう大丈夫』と思った生徒でした。
決して成績が劇的にあがったわけでもないし、実際大学受験ではそうとう苦労をしたみたいだけど、それでも「大丈夫」と思ったのは間違いなかったと思います。教えてその部分が分かるようになる生徒はたくさんいたのですが、「こいつは自分がいなくても受験勉強を自分で進められるし、問題を解く肝を自分で見つけていける」という確実な手ごたえがあったのは多分彼だけだったと思います。
また、彼は家庭教師を自分から親に頼んでつけてもらい、家庭教師代の(たしか)半分を自分で払っていた唯一の生徒でもありました。「問題を解く肝」なんてものは問題の回答や解説の中にころころ転がっているのですが、たぶん受身の勉強では言われるまでそこに気づきません。 今の彼を見てこういうことを言っていいのか分かりませんが、彼にもともとあふれる数学の才能があったというわけではないと思います。ただ、彼の能動的な姿勢がそういう肝をみつける目を育てたのだと思いますし、その後のすばらしい出会いを生み、自らの道を切り開いていってるのだと思います。
それに、その時の僕の手ごたえは、僕の中である種の確信になっていますし、今後子供を育てていく上での一つの助けにもなってくれると思います。
高校時代から大学以降の家庭教師等でいろいろな人に勉強を教えるということはそれなりにやったが、自分でやっていけるようになる、というプロセスを横から見る経験はこの時が始めてだったように思う。まさに教えるという経験と並行して、自分でやっていける能力が形成されていくのを実感として感じていたのだけど、彼も同じくその経験を強く感じ取っていたらしい。
彼の経営する塾は「自信塾」というのだけど、少し熱苦しいくらい熱い彼らしい名前だと思う。
なぜ”自信塾”なのか、というのが塾のHPに書いてあった。
■自信塾:なぜ“自信”塾なのか
さて、ここでこの本で学習能力について書かれた部分を引用してみる。
自己組織化には相転移(全体的局面変化)が起きる分岐点があり、分岐点の近くまでどのように誘導するか、その分岐点でどの方向に誘導するようなエクササイズが有効かを問うのが、学習理論である。この場合、学習とは能力の形成であって、知識の増大や観点や視点の獲得ではない。知識の増大は学習の部分的成果である。だが能力の形成は、学習には含まれているが、知育とは異なる回路で成立していると予想される。(p.116)
学生時代に私と彼が経験したのが自己組織化、相転移、能力の形成のプロセスだったように思うし、教育者のなすべきことはこの自己組織化を後押しすることであって、知識の増大そのものではない。
それが、塾の方針にも表れている。
■なぜ“自信”塾なのか
私は、若者にこの「自信」を手に入れて欲しいのです。 この受験勉強で得てほしいことなのです。
大学に合格することは決して簡単なことではありません。それは、偏差値の高い大学に入ることが難しいと言っているわけではありません。(もっと言えば、偏差値の高い大学に入ることだけが尊いとも思いません。こんなことを塾の先生が口にすると「なんてことを言うんだ」と叱られそうですが、もう学歴がモノをいう時代ではありません。偏差値の問題ではなく、自らが望む大学を目指すこと、その大学に入学することが最も尊いのです。)
自らが設定した目標に向かって歩くことはけして簡単なことではないということです。人生の目標に向かって努力することは、極めて単純なことではありますがけして簡単なことではありません。
このことは経験してしまえば当たり前のことだけど、塾を経営する立場でこう言える人はもしかしたらそんなに多くはないのかもしれません。
教育について
本人にとって全く意図せず、予想もしないことでも、親や教員の手助けがあればできるものである。そしてこの手助けがなければ、もう二度とやろうとしないという事態も起こりうる。最近接領域で親や教員の助けを得てできるようになったことは、その後一人でもできるようになる、というのが暗黙の大前提である。本人が志向し実行可能な自分自身の予期をもち、ひととき親や教員の助けを得ながら形成される能力の領域というのが、最近接領域という語で意図された内容だろうと思われる。(p.117)
これは、ヴィゴツキーの能力形成論の最近接領域について書かれた部分だが、同じ親や教員の助けを借りる場面でもその後の能力形成に違いがでると言うことである。
これは頭では分かってもなかなかできないことでもある。自分の子どもにも”自分でやっていけるようになる”という経験をさせたい、と思ってあれこれ手を焼いても、つい直接的で指示的な物言いになってしまい、その時はやってもそれ以降の能力形成にはつながらない。我が子は特に難しく感じるのは自分だけだろうか。(ちなみに、小6の時に教育のプロに任せれば、と思い塾に通わせてみたけれども、自律的な力が身についたようには見えないので、塾の先生といえどもこれができる人は限られるのだろう。)
そこで治療目標を決めて、一度それを括弧入れする。そして形成プロセスを誘導できる場面で、形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てることが必要となる。(p.137-138)(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B225 『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』)
リハビリの場面での上記引用のような関わりと同様、先生に限らず親の立場でも教育の場面を考えた時には、このように、到達目標を一旦括弧入れし、異なる回路で「目標」がおのずと達成されるように関わることが大事なのだと思う。
その意味で、知識の獲得ではなく、”自分でやっていけるようになる”こと事態が目標だとした場合であっても、自信がつくところまで時には厳しく徹底的に勉強(知識の獲得)をやらせるのも理にかなっているのかもしれない。その結果、できるようになる、という体験を生徒自らが経験することで自身をつけ”自分でやっていけるようになる”のであれば。
能力の形成に2つ場面を想像すると、これは逆上がり習得型に近いかもしれない。
・逆上がり習得型
鉄棒の逆上がりの練習に典型的なように、小さな試行錯誤を繰り返している場合でも、ひとたび一つながりの動作が形成されれば、それらの試行錯誤はまるでなかったかのように、一まとまりの動作の中に組み込まれて組織化されてしまう(p.239)
・別回路指示型
例えばスキーのジャンプを行うとき、重心が後ろに残って飛距離が出ないことがある。コーチは観察しているのだから、踏切のタイミングが少し遅く、重心が後ろに残っている事実はただちにわかる。そこで重心を少し前に出すようにと指示したとする。ところが行為者は、時速90キロもの速度で踏み切るのだから、「重心を少し前に出す」という指示が、どうすることか分からないのである。観察で理解できていることが、どうすることなのかの指示になっていない。そこで行為者本人にとって、プロセスのさなかで選択肢のある動作についての指示が必要になる。かつて名ジャンパーだった八木宏和コーチは、踏み切る瞬間に見ている視線の位置を10センチ先を見るようにと言う指示を出している。ジャンパーは、踏み切る瞬間に自分の着地する位置、すなわち100メートルほど先を見ているはずだが、その視線の位置を10センチ前に出すようにというのである。これによって踏み切るタイミングが少し早くなる。観察者は、一般の動作のさなかでの選択を指示していない。ところが身体行為者は、そのつどプロセスのさなかでの選択をつうじて、行為を形成していく以外にないのである。(中略)介入者に形成しようとする能力を直接支持するのではなく、別のより簡便な課題を実行させながら、能力形成を同時進行課題とするのである。(p.139-140)
ただ、親の場合は距離が近すぎて、やらせる、という方法は本人の反発(煩わしく感じる)と甘え(親がやらせてくれる・最後は守ってくれるという安心感に基づく誤解)を同時に引き起こすので難しいことが多いと思う。まずは、ああしなさい、こうしなさい、という指示的な言葉はいったん飲み込んで(括弧入れして)、他の言い方・他のやり方を工夫するべきなんだろう。(ただ、これは別回路指示型に近いが、少し高度すぎるかもしれない・・・。これに関しては『池上さんのことば辞典』が良書。)
でもまー、もしかしたら親のできることなんて限られていて、自分の背中を見せることと、良い出会いがあることを願うことしかできないのかもしれないなー。