なぜオートポイエーシスやアフォーダンスの本を読んだりブログを書いたりするのか。

  1. Home
  2. ブログ
  3. コラム
  4. なぜオートポイエーシ...

前回の『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』の続き。

なぜ、そんなに時間をかけて、オートポイエーシスやアフォーダンスの本を読んだりするのか。また、なぜそれをブログに書き残すのか。

それは、まー面白いからに違いないのだけど、それほどの時間を割く価値はあるのか。他にやるべきことがあるのではないか。ちっとは行動に移せよこの野郎。
そんな自問自答はもう飽きるほどやった気がするけど、実際は自問ではなく仮想の他人が発する問い、いわば他問への応答なので適当な言い訳をでっちあげて終わることになる。

しかし、この本を読んで多少はつかめた気がするので書いておきたい。

基礎能力

建築・空間なんて言ってもやっていることは基本的には物を配置することである。何と何をどういう寸法で組み合わせるか。
それを人にとって有意義であろう何かしらにするなんてことは簡単にはできる気がしない。
でも、その建築もしくは図面にどれだけの思考が費やされたか、どんな意志が介在しているか、その密度や深さは容易に伝わると思うし、実際にすぐ分かる。
では、その密度や深度をどうやったら増すことができるだろうか。そんなことを考えてる時に出会ったのが例えばオートポイエーシスでありアフォーダンスだった。

それを学び、触れるうちに、視点や観点が変えられたというよりは、もっと体験的な感触、自分のイメージ能力が拡張されたような確かな手応えがあった。

例えば、スポーツで繰り返し練習したり試行錯誤しているうちに何かを掴めたような瞬間がくることがある。それが試合のある場面で無意識に身体が動いて創発的な対応が生まれるというようなことへとつながる。そこでは何かしらの能力が獲得されている。そういう感じの手応えがあった。

実務における設計行為はスポーツの試合みたいなもんじゃないだろうか。その都度その都度「ここは哲学的に考えると・・・」などといちいち考えられるわけではない。与えられた条件やその時々の状況に応答しているうちに密度が高まっていくが、その一手一手にその人の持っている能力が現れる。その能力を鍛えるための基礎練習として、いろいろな考えに触れ、その感触をブログに書くことで拾い上げるという作業を繰り返してるんだと思う。

河本氏は「本は忘れるために読む」という。これは知識を蓄え配置するような読み方ではなく、感触を拾い上げ自らの経験に組み込むような読み方をせよ、ということだろう。しかし、私は忘れないためにブログに書き残す。それは知識として忘れないように、ということではない。その時に自分の中にみつかった感触と再度出会えるようにするためのフックとして書き残しているのだ(読書で得た知識もそのような感触もまたたく間に忘れていまう)。その感触は後で別の感触と出会い、新たな経験へとつながるかもしれない。いや、実際つながっていく。(ただし、自分の中の感触を書き残しているだけなので、それが他の人に伝わるかどうかは分からない。どちらかというと少し先の自分に伝えるために書いているのでそれで構わないと思っている。)

語ることは、経験の別用の再編であり、それは「知る」というような事態ではなく、遂行的経験であり、行為である。多くの場合には、強烈な断片となった心的印象を脈絡の中に置き、エピソード化し、さらには物語的なつながりを形成させて、記憶されているもののネットワークを再編する。(p.216)

ブログを書く時、ぼんやりとした感触のイメージはあっても、何を書くかというのはほとんど決まってないことが多い。書きながら自分の感触が言葉へとかわり、かたちが徐々に形成されていく。書くというのはそういう作業で、これを経ないと、書くことで初めて分かったということに出会う可能性を捨ててしまうことになる。つまりもったいないから書く、という部分が大きいかもしれない。

今の自分が試合に活かせるだけの能力をどれだけ身につけられてるかは置いといて、そういう地道な作業が最後には効いてくると思うし、そういう一見遠回りな(カップリング的な)システムの作動方式というものに対するイメージをこの本で掴めた気がする。

また、おそらく哲学的又は倫理的な態度はこの基礎能力に埋め込まれるべきなんだろうと思う。そうでなければ発揮する場面がかなり限られてしまう。

遂行的イメージ

上に書いたことに重なる部分もあるが、オートポイエーシスやアフォーダンスを学ぶことの意味は建築に対する姿勢を更新することである。
設計という行為に対する「遂行的イメージ」を書き換えることとと言ってもよい。

自分で見た自分の動作ではなくても、どこか紛れもなく自分の動作をイメージできる。こうしたイメージは、動作と密接に関連しており、次の動作の手がかりとなるものである。こうしたイメージを「遂行的イメージ」と呼んでおく。これは眼前にくっきりと浮かぶ視覚イメージとはずいぶんと異なる。このイメージと直接関連しているのは、動作とともに感じ取っている動作の感触である。(p.13)

私たちはほとんどが近代的な認識イメージで満たされた世界で生活しており、建築に関してもそれを基準とした教育を受けてきた。しかし、それではこぼれ落ちてしまうことや、自らの経験を行き詰まらせてしまうような領域がある。こういうことに関しては今までいろいろと書いてきたのでここでは述べないが、それに対して経験を開いていくような感触をオートポイエーシスやアフォーダンスは与えてくれる。それは、今まで当たり前として行っていた、世界に対する認識のパターンを置き換えるようなことで、それによって設計行為に対する姿勢も大きく変わってくるように思う。今、当たり前と受け取っている世界に対する認識のパターンもこれまでの人類の歴史の中でたまたまそうなった、というだけに過ぎないし、設計という行為に対する「遂行的イメージ」が設計の内容を規定している度合いというのはかなり大きいと思われる。

このとことについて、おいしい知覚(後に出会う建築も追加)としてまとめた際、403architectureの辻さんにtwitterでいろいろ助言を頂いた中に「近代を直接知覚で乗り越える意志は大変共感しました。」という言葉があった。
これを励みに今後も自分をアップデートしていきたいと思う。





関連性の高い記事