「わかろうとすること」と「わかってしまうこと」の間の距離感 B173 『考えること、建築すること、生きること』
ARCH(K)INDYでお話を伺ってから気になってて、だいぶ前に買って読んでいた本。
一番印象に残ったのは、都市の問題が身体性という言葉を絡めて語られたこと。とかく、都市の問題というと実感を伴わないことが多く、無力感を多少なりとも感じてしまうことが多かったのだけど、身体性と言う言葉で、おそらく人の視点から語られたことに、何か実感を持ったとっかかりを得られたような気がした。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » ARCH(K)INDY vol.8 他メモ)
内容についてはいろいろと共感する部分が多かったにもかかわらず、なんとなくまとめてしまうことにためらいがあってなかなか書きだせなかったのだけど、あらためて本書を手にとって序文を読んでみてその理由が分かったような気がした。
たとえば、明快なキーワード一言で言ってしまったらどうかと。でも僕は、15本のテキストを読んでもらってはじめてわかるようなものを目指していた。
でもそのコンセプトなるものをここで「表現」しようとはどうしても思えなかった。だから冒頭に書いたように、いま僕はようやくこの本の全貌を俯瞰できる視点をもつに至ってもなお、ここで全体を包括して分かりやすくするようなことを書きたくはない。
他方で僕は、何かをわかりたいと同時に、わかってしまうことが怖いのだ。(中略)わかろうとすることと、わかってしまうことを畏れることは矛盾する。その矛盾を自ら抱え込むことが、わかることの質を高めてくれる気がする。
そう言われると、この本の中で書かれているそれぞれについて、その思考の対象にすぐにぴったり寄りそってしまうのではなく、常に対象と一定の距離感を保ち続けることで、その対象と自分の思考・感覚との間から何かを発見していっているように見える。
ARCH(K)INDYの時、お話を伺って感じたのは、ひとつひとつのことに対して積み重ねられた(僕からすると)圧倒的な思考のあとだったのだけれども、それは常に「わかろうとすること」と「わかってしまうこと」の間の距離感を保ち続ける姿勢の中から来ているのかも知れない。
先日行われたイベントで、「これからのつくってゆきたい理想の暮らし方のイメージ」というテーマに対して蒲牟田さんが「僕たちは理想の暮らし方を提案しては行けないし、イメージしてもいけない」と言うようなことを言われてすごく心に残ったのだけど、これも同じように建築家として距離感を保つ姿勢の一つだったのかも。(文脈を省いてるので誤解されそうだけど)
日々の設計や監理の過程の中で、常にいろいろな「わかろう」や「わかった」に出会っているわけだけども、僕はそんな距離感を保ち続けられているだろうか。