B169 『ウィトゲンシュタインの建築』

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バーナード・レイトナー (著), 磯崎 新 (翻訳)
青土社; 新版 (2008/6/20)

読書会の3回目に井原先生にウィトゲンシュタインについてちょっとした解説を頼まれたので、読んでみました。
それをもとに、『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』とウィトゲンシュタインの建築をどう絡めるかをメモしたので多少手を入れて載せてみます。

ウィトゲンシュタインの建築について【メモ】

ウィトゲンシュタインは全てをコントロール出来なかったにもかかわらず、なぜ「私の建築」と呼んだのか。
p.166を読んで浮かぶ問はこうである。しかし、建築のプロセスやできたものを見るかぎり、また一般的な建築家の仕事を考える限り、彼はこの建物を「建築」とするために「私の建築」と呼ぶにふさわしいほどコントロールしたという印象が結局拭えなかった。細部の構成も幾何学的に熟慮されていて、『ウィトゲンシュタインの建築』巻末で多木浩二が前期ウィトゲンシュタインの哲学との並行性に触れているように「建築への意志」を十分に持っていたと見れる。

なので、先の問を「ウィトゲンシュタインはこの建築を通じて何をなしたのか。また、教師の経験を通じて「教える・他者性」ということに重要性を見出していたと思われるのに、なぜ重要な部分で「建築への意志」を貫いたのか」と置き換えてみる。

特徴
(1) ストロンボウという施主は非常に個性・主張の強い人物であった。
(2) 共同設計者(エンゲルマン)の案をほぼ踏襲しており、エンゲルマンは最後まで関わっている。
(3) 天井を後で数センチあげたり、技術的に困難なスチールワークのディテールを技術者の意見を聞かずに貫いたり、ミリ単位で細部に異常なほど固執した。

考察
(1)については建築の設計においてよくあることである。
(2)についても実際は一人の建築家が全てを決めることはほとんどなく、スタッフや共同設計者が多くのことを担い、それでも重要な役割を担った人が「私の建築」と呼ぶことは一般的である。(実際にはエンゲルマンはある程度身を引き多くをヴィトゲンシュタインの個性に委ねたよう)
(3)についても同時代の近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエが「神は細部(ディテール)」に宿る」と言ったように、建物が「建築」足りうるためにディテールにこだわることはよくあり、エンゲルマンが行った基本設計とは施主の要望とは異なるレベルで「私の建築」とするためディテールに「建築への意志」を込めることは十分考えられる。

以上から、建築家のあり方として特別だったとは言えないように思う。
これは流れで言うとウィトゲンシュタインが「世俗的な建築」を「隠喩としての建築」から開放したと言えるかも知れないが、ではなぜ、同じ世俗的な他者である職人の意見を無視してまでディテールに拘る必要があったのか。

仮説
これには(1)のストロンボウ婦人の個性が強かったというのがひとつの大きな理由のように思える。
施主とウィトゲンシュタインと同一の規則を有しない他者であったと仮定した時に、そこで両者の、又はウィトゲンシュタインの建築と施主のコミュニケーションを成立させるため、建築に「固有名」を与えることを望んだのではないか。
『ウィトゲンシュタインの建築』に「しかしその内部は二十世紀の建築史においてもユニークなものだ。全てが熟慮されている。慣用されていたものからも、職業的なアバンギャルドからも、何ひとつ直接的に移植されたものはない。」とあるように、建築が施主に内面化されてしまわない固有性を持ったものにするためには徹底的にディテールに拘る必要があったのではないか。

これは、例えば大量生産型の住宅が「商品」となり、全てが施主が内面化できる中にコントロールされるように構造化されてきたことと全く逆である。
このような住宅は誰でも設計・施工でき、たいていの客が理解でき、クレームを最小限に抑える必要性から、そこで用意されるものや価値観は施主に内面化されるもの(またはそう錯覚されるもの)が厳選され、そこから外れないように徹底的にコントロールされてきた。
そのような建物は「モノローグを超えたコミュにーケーション」を拒絶するもの=施主に完全に内面化された「社会性」のないものになってしまっている。そして、それが今の建築・都市景観の貧しさにつながるのでは、という今日的な課題とも関連しそうである。
そして今ではモノローグを超えた「世俗的な建築」そのものが非常に困難になっている。

「世俗的な建築」の困難(補足)

ここでのモノローグとは自己対話というだけでなく、内面化された他者との対話も自己対話に帰結するとし、モノローグ、または独我論の内にある。また、社会性とは内面化されない他者との対話の間に生まれるものである。

大量生産による工業製品は現代を生きる殆どの人に内面化されたもので、工業化という技術の外部に出ること(=社会性を得ること)は困難である。また、そこで多様性を装って予め準備されている価値観も内面化されていることを前提に厳選されたモノローグを助長するものでしかなく、その外部と出会う機会はかなり奪われてしまっている。
そのような中で純粋に「世俗的な建築」であること、または出来事であることは今となっては困難を伴うものになってしまった。

この本を読んで一番の収穫は、得体のしれない言葉だった「社会性」というものを多少掴むことができ、それに対して「固有名」を与えたり関係性を築くことが有効だと思えたことでした。
事務所のロゴに込めた、建築が施主や設計者に内面化されない独立した存在(固有名を持った存在)であって欲しいという思いと「社会性」という言葉が繋がったのには大きな勇気をもらえました。





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