B097 『前川國男 現代との対話』
「生誕100年・前川國男建築展」を機に行われたシンポジウムの講義録。
大雑把に言うと前半はコルビュジェやレーモンドといった前川國男の周辺から前川に迫り、後半は今現在、現役から見た前川像と言うような構成。
中でも内藤廣の言葉にはっとすることが多かったが、前川國男と内藤廣は建築や社会に対する根本的なスタンスが似ているような気がする。
内藤が前川に関連付けて<分かりにくいことにある価値>や<時間とデイテール>を語るところは内藤自身の著書でも語られていることだ。
『現代との対話』というタイトルがつけられているように、前川が現代の私たちに突きつけているのはこういった社会や時間というものに向き合う建築に対する姿勢だろう。
■今、グローバリゼーションという仕組みと金の流れが、地球を被いつつあります。表向きは、地球環境や市場開放と言ったりしますが、その裏にはある種の権力構造が働いていて、それに私たちは日々さらされているわけです。
そこでは、建築に何ができるか、が問われているのだろうと思います。建築は、まぎれもなく資本主義社会の中で作られるのですから、その仕組みを逆手に取らなければ何もできないわけです。それでも何ができるのか、それを考えることが、建築をやる人間の使命ではないのか。グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)
■ディテールに描かれる物質には、それぞれのエントロピーがあり、それぞれ時間のオーダーをもっているわけです。スティールとコンクリートと木とガラスというように、それぞれの時間を組み合わせて、より人間のために望ましい時間を作ることが、ディテールの真髄ではないか。異なる時間のディメンジョンを組み合わせて、もっと長い時間のディメンジョンを作り出すのが、ディテールなのではないかとの気がしています。(内藤廣)
■前川國男が、その長い活動を通して、最終的に近代建築に求めようとしたこと、それは、身近に手に入る素材を用いて、大地に根付き、時間の流れの中で成熟していくことのできる、簡素で明快な空間を作り出すこと、そして、何よりも、そこを訪れる人々が、自分を取り戻し、共に静かな時を過ごすことのできる、心のよりどころとなる場所を、都市の中に生み出すこと、だったのだと思う。(松隈洋)
しかし、それは社会の流れに抗うことでもあり口で言うほど簡単ではない。いずれ向かい風が追い風に変わるときがくると信じてそのスタンスを貫くことができるだろうか。貫いてこそ独自性や優位性という武器を手に入れられると思うのだがそれを理解してもらうのもまた難しい。(内藤廣も相当苦労された末に今のポジションがある。この問題は僕自身の問題でもあるし、地方が抱えている問題でもあろう。)
また、僕は分かりやすさや楽しさと言うものも、建築における重要な価値であると思っているのだが、それと前川國男の(内藤廣の)投げかけとの折り合いをどうつけるかは今後の課題である。
思ったのだが、内藤の著書に対する感想の最後に
一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。
と書いたようなこと。アアルトの建築に見られるようなアフォーダンスの海のようなものがもしかしたら前川國男の建築にはあるのではないだろうか。(饒舌ではないかもしれないが)
一度、熊本県立美術館を訪れてみよう。