サービスからツールへ B308『 How is Life? ――地球と生きるためのデザイン』(塚本由晴,千葉 学,セン・クアン)
塚本由晴,千葉 学,セン・クアン,田根剛(監修)
TOTO出版 (2023/11/24)
ギャラリー・間の開設35周年を記念して行われたテーマ展(2022/10/21~2023/3/19開催)をまとめたもの。
企画時がコロナの真っ只中だったこともあり、これまでの社会のあり方・常識に対して転換を促すようなテーマが選ばれ、建築らしい建築はあまり出てこない。
が、道具に対する言及はいたるところにある。
道具を外部化し、専門化することで暮らしを産業社会的連関に移行させてきたのが20世紀後半のビルディングタイプなら、道具を取り戻し、暮らしを民族誌的連関につなぎ直す21世紀のビルディングタイプは、ツール・シェッド(道具庫)を原型に持つものになるだろう。身の回りの環境に細工を加え、整え、季節の恵みや、エネルギー資源を獲得するために、道具を持ち替え、向き合う対象からの反作用として己の体を知る過程で、スキルが発生する。(p.137)
地方に軸足を移すと、道具類がどんどん増えていく。そして、どんどん欲しくなる。
道具とそれを扱うスキルによって、地方における自分の存在・自分の見えない領域が増えたり減ったりする気がする。
それは、テリトリーというようにお互い奪い合うような領域というよりは、お互いに支え合うクッションのようなもので、それが増えれば増えるほど、より周りに貢献することができる。しかし、支えてもらってばかりでも恐縮してしまうので、堂々と過ごすには、やはり何かしら道具とスキルがあったほうが楽だ。
道具がずらっと並んでいるのを見るのは至福だし、自分が道具とスキルを手に入れることには、なんとも言えない充実感がある。
この充実感は、分かる人には分かるというもので、なかなか言葉では伝えられない。
よく言われるような、道具による身体の拡張、というだけでは何かが伝わらないことがある気がする。
では、何が伝わりにくいのだろうか。
先程の引用のような、サービスとツールは、ベクトルが異なる。サービスは外から内のベクトルで受動的、ツールは内から外のベクトルで能動的と言えそうだ。これは、ベクトルを再び反転しよう、という話なんだと思う。
しかし、道具による充実感のキモは、向きではなく、能動性と双方向性にある。生物の知覚と行為の基本は本来、能動的で双方向なものなのだ。
その双方向性を規格化/工業化を邪魔する、煩わしい余計なものとして捨て去り、一方通行にしたものがサービスなのだから、充実感が不足するのもやむを得ないし、そのままの視点で、道具を身体の一方的な拡張としかイメージできなければ、その充実感は想像できない。
道具は単に身体を拡張するだけでなく、世界を取り込み絡み合わせる。
そこらにある道具は、時代遅れの代物だと思われがちだけど、そうではないだろう。
ベクトルが逆だった20世紀後半、ツールに求められるのは双方向的な調整機能ではなく、一方通行な正確さである。単に、手道具はそれにマッチしなかっただけで、再びベクトルを逆転すると、それまで、時間の試練をくぐり抜けてきた道具たちの機能性と美しさに気付くことになる。それらは時代遅れではなく、時代外れだっただけなのだ。
ユクスキュルの環世界は、種や個体の持つ知覚やスキルが、それらの住む世界の現れやあり方を変え、個別なものにすること示しているが、道具やそれに伴うスキルは、扱うものの環世界を、生態心理学的に言うと、環境に含まれる意味や価値を変えてしまう。
道具によってそれまで見向きもしなかった、煩わしいだけだったのものが、意味や価値に変わり、生活を豊かにする資源に変わる。
さまざまな道具を持ち替えることは、さまざまな色眼鏡を装着するように世界の見え方を次々に変えてしまう。これが面白くないわけがない。
逆に言うと、サービスに埋め尽くされた社会での環世界は、一部では大きく開かれているかもしれないが、偏った狭いスコープしか持たないものだと言える。千葉学が書いたように「道具を介して地球と向かい合う機会が稀な社会では、環境への理解など、深まるはずもない(p.176)」。
このことが、最近になって少しづつ分かってきた。
どんな道具を持ち、どんなスキルを身につけるかは、環境に対する姿勢そのものを示すと言える。
そういう意味では自分もまだまだだ。
できることなら、道具をつくったり直したりするような道具やスキルを身につけたいものだ。