BSドキュメンタリー『脳をどこまで変えるのか』
土曜日の夜BSで『シリーズ立花隆が探るサイボーグ医療の時代 第2回脳をどこまで変えるのか』を見た。
第1回は“人体と機械の融合”だったそうだが、自宅にBSが無いので見ていない。
しかし、この回だけでもかなり衝撃的だった。
→立花隆のゼミの特設サイトSCI(サイ) に詳しく載っているので時間のある方は是非。
この番組を見て僕は2つの意味でショックを受けた。
一つ目は現在の技術がすでに想像を絶するような領域にまで踏み込んでいること。(以下僕の理解なので正確かどうかは各自判断を)
番組では脳深部刺激療法というのが紹介されていた。
例えばパーキンソン病の患者は手足の震えがとまらなかったり自由が効かなかったりするのだが、それは脳のある部位に異常がありノイズ的な信号を手足に送ってしまうからだそうだ。
そこで、その部分にプラグを刺し込みそのノイズの上から電流を被せていくことでノイズが打ち消される。
その効果は劇的で、機器の電源を入れる直前まで手足を自由に動かせなかった患者が電源を入れたとたんに、それまでが嘘のようにいきいきと動き出す。社交ダンスを踊ったり、水泳をしたりといきいきと。
また、重度の鬱病の患者は”悲しみの中枢”という部分が活発で、それが食欲や他の部分に影響を及ぼしているそうだが、その部分にプラグを刺し込み同じように電流を流すことで鬱の症状が軽減されたという。
なんとなく物理の波の干渉実験を見ているような感じがしたのだが、脳までをコントロールできるとなれば、人間と機械の区別はますます曖昧になるし、実際、この番組を見て脳とコンピューターのイメージが重なってしまった。
今まで、宗教やドラッグなどが脳をコントロールする技術だったのかもしれないが、それがコンピューターにとって替わり、より身近なものになるかもしれない。
どこまでやってよいのか。
第2のロボトミーとなる危険も危惧されている。
立花隆は脳を「人格脳」と「身体脳」に分け、後者のみが医療の対象として操作してよい、というようなことを言っていたが、その境界こそが問題で判断が難しい。
それについて、最後にある倫理学者の話が出た。
医者になるときに必ず向き合う「ヒポクラテスの誓い」に「私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。 」とあるように、そこに苦しんでいる患者がいてその人の力になりたいという行為のみがゆるされるだろうということだ。
しかし、なお、倫理観は時代の流れを受けやすい。
そのうちに、プラグレスで脳の特定の部位に刺激を遅れるようになり、インターネットで「脳の快楽プログラム」なんかをダウンロードして楽しむようになるかもしれないし、プチ人格整形がはやって若者がみな妙ににポジティブ・ハイテンションになるような気持ちが悪い世の中になるかもしれない。
二つ目は自分がいかに偏見に満ちた見方をしてしまうかにショックを受けた。
先にあげたパーキンソン病の患者の映像で、脳深部刺激療法を受けた患者が劇的に変化をするのを見たときに、その前後で、その同じ人物を見る僕の見方・感じ方があまりに違うことにショックを受けたのだ。
どのように違うかは説明が難しいが、例えば僕が看護士だったとして、施療後の症状を抑えた人物と施療前の症状の出ている人物と話をするとする。(二人は同一人物)
そのとき、僕はきっと前者には敬語で話しかけるだろうし、後者には小さい子供に話すように話し掛けるだろう。
機械の電源のオン・オフの違いだけで全く同じ人物なのに。
自分の中で上下関係をつくってしまうとまではいかないけれども、こういう風な違いを感じたのだ。
僕は見た目でこんなにも人を判断しているのか、ということを見せ付けられた気がした。
頭では分かっていてもなかなかその偏見は簡単には取り除けない。
しかし、自分の視線にも偏見や差別といったものが容易に紛れ込むということを自覚しておくことは大切ではないだろうか。
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