たこやき大学2015「メディアと共同体」メモ
先日年末恒例のたこ大があったのですが、予定が合いそうだったので忘年会のノリで参加してきました。
例年以上にモヤッとした感じでしたが、chanさんがうまくまとめて下さってました。おおまかな流れはこちらで。
■たこやき大学の「もやっと」する授業ノートを大公開! | KagoshimaniaX
以下メモ。参加してない方には分かりにくいかもです。
メディアと共同体、個人の主体性と輪郭
マクルーハン/グーテンベルクを最初の起点にメディアの変遷から話題は多岐に渡ったのですが、自分なりに話を解釈するために横串を探しながら聞いていました。
・印刷技術と聴覚/視覚の変遷
聴覚(印刷技術発明前、口伝的、私へ)→視覚(印刷技術発明、私から)→聴覚(ラジオやテレビ、私へ)→視覚(&聴覚)(テロップ、私から(&私へ))
自分の場合、例えば音声による入力と視覚による入力を比較した時、視覚による情報の方が入力の精度が上がる気がします。
音声の場合は時間の流れがコントロール出来ず受動的なのに比べて、テキスト情報の場合後戻りも含めて時間のコントロールが容易で能動的・主体的に振る舞いやすい。
気になる動画があったとしても、テキスト化されたものを読んだり自分なりにテキストにまとめて反芻しないかぎりなかなか情報を捉えた実感まで辿りつけない気がします。
テロップの頻発するテレビは音声とテキストの混合ですが、テロップの表示はある程度持続性があるので、その持続する時間の中に僅かではあっても主体性の入り込む余地が用意されていて、それがテレビをぼんやり眺めることの受動性と能動性の幅をつくりだして、視聴率もしくは視聴時間の増加を促しているのではないか。というのは一つの仮説。
・ものの価格
定価(私へ)→一物一価の崩壊(私から)
ものの価格そのものに対して主体性を見出すのは難しいかもしれないけれども、一物一価の崩壊によって選択の幅が広がり私が価格に関わる関係性の度合いは高まると言えそう。
・大量なものと情報へのアクセス可能性
積読(選択(私から)と私の輪郭)
大量の情報の中から主体的に選択して輪郭を生み出すことで一定の安心感が得られるのではないか。
いずれもメディアを介してのコミュニケーションという面は共通しているかもしれないけれども、そのベクトルの向きが私へと私からのどちらの割合が大きいかは違ってくるように思います。
一物一価の崩壊とテロップの時期の重なりによる共通点がなかなか見つからなかったのですが、そのベクトルやそれに対する欲求の変化と考えると串が通る気がしました。
ちょうど建築に関して「漂うモダニズム」という論考に関連する本を読んでいるところですが、一般的な問題としても大量のものや情報の大海原の中をどう生き抜くかというのがあるよう思います。
おおきな乗るべき船が見えなくなったその時に、一定の主体性や私の輪郭を求める、というのは人間の欲求としてあるように思います。
メディアと共同体というテーマに帰ってみます。
途中、サーカーチームがメディアになると宣言するようなことが紹介されました。
先の話で言えば、メディアの役割のベクトルも「私へ」と「私から」の間で揺らいでいると思うのですが、この宣言はどちらも担う存在になるということかもしれません。
それは私の主体性や輪郭を求める個々の欲求を媒介する役割を担おうとするもので、そこから浮かび上がる共同体は、「私へ」を受け止める個々の集合から、「私から」を求める個々の集合もしくはそれらの混合へと変わり、そこから産まれる私の輪郭の質も変わってくるのかもしれません。共同体をつなぐ糸の質がメディアと時代性によって変わるとも言えそうです。
いじるのが下手、という話も出ましたが、個が「私へ」を求める割合がまだ多いだけでなく、メディアとなる存在が「私から」を受け止める準備が出来ていないことにも原因があるのかなと思いました。時代の流れや潜在的な意識も含めたそれらのミスマッチがつなぐ糸の成長を阻害しているのかもしれません。
最後に、個性というものも話題に上がりましたが、「個性とはメディアに過ぎない」と言ってみるといいような気がします。
何かいいこと言ってそうな雰囲気も出ますし、おすし。