ケンペケ04 予習
12月のケンペケに辻琢磨さんにお越しいただく予定なのですが、そのための予習として現時点で考えたことをまとめておきたいと思います。
「建物」と「建築」の分断を乗り越える。
一言でいうとすれば、私は建築を流動状態として捉えている。(中略)「物が動く」流動の途中として建築概念を捉え直すと、新築も解体も改修も減築もすべて同じ建築行為として並列化される。(辻琢磨『応答 漂うモダニズム』2015)
このごろ「建築」と「建物」を再定義し、「建築」の役割・使命のようなものを捉え直してみたい、という思いが強くなっている。
だいぶ前に女性脳と男性脳の本を読んでから「建物」と「建築」も男性・女性と同様にどちらが正しいということではなくそれぞれのあり方に必然性がある異なるものと捉えられるのでは、と思い始めた。
例えば、
「建物」・・・女性的。”今ここ””私たち”の共感とそれに伴うデータベース構築(共感の引出し強化)を志向するもの。
「建築」・・・男性的。空間・時間・身体・意識等さまざまなレイヤーにおいてなるべく遠くへ到達させようとする、いわゆる遠投力を志向するもの。
というように分けられるとする。
最近まで「建物」は近代化・工業化・合理化にともなって画一化された(多くは、「建築」の側からとるに足らないとみなされるような)共感をベースにしたもの、「建築」に成りそこねたものとしてみなされてきたように思う。”今ここ””私たち”の範囲は狭く限定的でデータベースは貧弱、およそ魅力的に思えないもの、というイメージである。
しかし、情報技術の発達と浸透に伴い”今ここ””私たち”の範囲は拡がり、データベースも強化され、共感の力が無視できないものになるに従って「建物」が勢力を増し社会的な意味を持つようになってきている。また、それに伴い「建築」が相対的に意味や力を失いつつあるように見えるようになってきたように思える。
「建物」が意味あるものになってきたということで、それは好ましいことだと思うのだが、分断が顕在化しつつある「建物」と「建築」は本来補い合うべきものであるとすれば、「建物」の役割と同時に「建築」の役割にも意識的であるべきなのではと思っている。
そういった中、403 architectureの活動は共感とネットワークをベースにそれまでの「建物」にアプローチしていながら、同時に「建築」としてのあり方にも手を届かせているように思う。(吉岡賞の受賞がそれを物語っている。)
それは、最初の引用文のように建築を捉え直し、「建物」と「建築」を相対化・並列化することによってなされたように思うし、そこには、最近課題だと感じつつある「建物」と「建築」の分断を乗り越えるためのヒントが隠されているように思う。
働きとしての「建築」
建築を捉え直すという行為があるということは、建築を志向するという意志が存在していると思う。
ここで一番知りたいと思ったのは、その建築という言葉から何を目指そうとしているか、ということで、その部分がまだ掴めきれない。
私が2010年にオートポイエーシスを参考にブログに拙い文章を書いた時に、twitter上で興味を示されたことが印象として強く残っているのだが、先の引用文を読んでそのことが思い出された。
「建築を流動状態として捉えている」という時に、それがその結果を指すのか、状態そのものを指すのか、少しイメージしにくいと思うのだが、建築をモノとしてではなく、モノを構成素とするオートポイエーシス・システムのように(そこからの派生物や流動している状態も含めた)働きそのもののことを指しているのでは、と思うと少しイメージしやすい気がした。
そうであるとするならば、建築を志向するということには、その働きそのものの存在を志向しているということになると思うのだが、そこにどんな思いが込められ、どんな未来がイメージされているのだろうか。
現時点での私の課題
この機会を通して、
・「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。
・「建築」を捉え直した先にどんな未来を描けるか。
の二つの課題に少しでも迫ることができればと思う。
参考(ごく個人的なやりとりのメモです。昔のツイートを引っ張り出してきて申し訳ないのですが、自分の関心の発端なので。)
■ケンペケ 辻さん 予習用2 – Togetterまとめ
■ケンペケ 辻さん予習用 – Togetterまとめ